六連星手芸部員が何か書くよ

基本的には、ツイッターに自分が上げたネタのまとめ、アニメや漫画の感想、考察、レビュー、再現料理など。 本音を言えばあみぐるまーです。制作したヒトガタあみぐるみについて、使用毛糸や何を考えて編んだか等を書いています。

超弦理論と幽世の宇宙が紡ぐ交換日記 『君の名は。』考察と感想

君の名は。』について、色々と自分の中で煮詰まってきた結果、昨日の感想記事があまりに薄っぺらく、作品の表面をなぞっただけの評論に思えてきたので、書き直します。昨日の記事はネタバレと題した割には(内容が薄かった為結果的に)シナリオについてボカして書いていましたが、今回は全部書きます。それでも大丈夫という方は下記へ。
※新たな考察を加えて加筆修正しました↓
ker-cs.hatenablog.com





















まず、自分が観た上でのシナリオの流れと解釈はこうです
・三葉の時間で瀧との入れ替わり生活が始まる
・三葉、瀧と奥寺先輩のデートを取り持ち、涙を流す
・三葉、瀧に会いに上京し、3年前の瀧に組紐の髪留めを渡す
・三葉、星が落ち、幽世で瀧を待つ
・瀧、星が落ちる景色を観る
・瀧の時間で三葉との入れ替わり生活が始まる
・瀧、奥寺先輩とのデートで訪れた写真展で、三葉の住む場所が飛騨である事を知る
・2人の入れ替わり生活が唐突に終わる
・瀧、三葉に会いに飛騨へ向かい、彼女が、もういない事を知る
・瀧、御神体で三葉の口噛み酒を飲み、幽世へ入る
・再び入れ替わり、瀧、彗星の落下から住民を避難させる為に奔走する
・瀧と三葉が黄昏時の幽世で出会い、瀧が三葉に髪留めを返す
・三葉が奔走し、その後、星が落ちる
・2人は幽世から現世に戻り、お互いの名前と入れ替わりの記憶を失う
・瀧の時間で5年後、2人は再会する

上記について補足していきます。劇中の描写では、三葉が瀧に会いに行ったキッカケは、瀧との入れ替わりにより星が落ちる事を知った為でした。訂正:瀧との入れ替わりによって、三葉は糸守が彗星によって消えた事を知りましたが、瀧に会いに行った理由は、瀧に会いたかったからだけですね。瀧の回想として直後にその場面が挿入されていた為、勘違いしていました。しかし、下のカットから分かるように、星が落ちて三葉がいなくなった世界でも、彼女は髪を切り、髪留めを付けていません。劇中で彼女の友人が言っていたように、瀧と奥寺先輩のデートを後押しした事で失恋し、それで髪を切ったのでしょうか?そして、瀧に会うことは出来なかった為に、星が落ちて死んでしまったのでしょうか?これは違うと思います。なぜなら三葉がいなくなった世界でも、瀧は彼女の髪留めを持っているからです。三葉は、彼女がいなくなった世界でも、瀧に会って髪留めを渡しているハズです。
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あらすじの中で自分は、三葉が幽世で瀧を待っていた、と書きました。これは、この作品の根幹を支えるSF理論が、いわゆるタイムパラドックスとは少々異なると考えた為です。その説明は、劇中で一葉おばあちゃんから語られた事が、そのまま答えになっていると思います。おばあちゃんは、まず"組紐"の話の中で、紐が縒る様、絡まり合う様、向きを変える様を時間に当てはめて例えていました。これはSF作品においてパラレルワールドの説明にも用いられる、"超弦理論(超ひも理論)"を指していると考えられます。
超弦理論とはいったいどんなものなのか、ざっくり言えば、素粒子を一本のひもとして考え、高次の次元をそのひもの中に巻き込まれたものとして考える、というモノです。また、オープニングで歌われた『夢灯籠』の歌詞の一節「5次元にからかわれて」の5次元とは、超弦理論で取り扱われる、空間を指す3次元に時間を加えた4次元、それらの高次元にあたる"別の宇宙"を指していると思われます。それが、SF作品においては、パラレルワールドとして扱われたりするわけです。
次に、御神体に"口噛み酒"を御供えする際、今度は幽世について話をしました。これは、日本神話にも表れる"現世と幽世"の話そのままです。幽世には現世とは違う時間が流れているといいます。どちらの話も劇中で同一人物から語られた事から、一貫性が示唆されていると思います。そして、本作においては、この幽世こそが高次の別の宇宙に当たるのではないでしょうか?
超弦理論に関しては、この作品に関連するところだけピックアップして記述しています。全貌が気になる方は、是非、調べてみて下さい。

タイムパラドックスと少々異なると言った理由ですが、瀧が最後に御神体の側で目を覚ました時、彼が三葉の名前はおろか、彼女との事を覚えていなかったからです。一見すると、三葉と瀧の入れ替わりをキッカケとして、彼女が瀧に会いに行き縁が結ばれる、というタイムパラドックスが原因のように思えます。しかし、三葉の運命が変わったのは、星が落ちた後の話であり、その前の入れ替わりの出来事の記憶は消えないハズです。この事から自分は、2人が記憶を失っているのは、時間を隔てて縁が結ばれたからではなく、現世と幽世を隔てて縁が結ばれたからだと考えました。原因はタイムパラドックスではなく、幽世での事を現世に持って来られなかった為ではないでしょうか?浦島太郎が竜宮城で過ごした時間を、玉手箱により現世に持ち込めなかった事と同じような理屈です。
黄昏時では幽世の人に出会えるともいいます。瀧が出会ったのは、時の流れが異なる幽世で、彼を待ち続けていた三葉だったのではないでしょうか?それどころか、それまでの入れ替わりについても全てがそうで、劇中での"憑かれた"という表現は、そのまま答えだったのではないでしょうか?邪推かもしれませんが、古典の授業で"黄昏時"を扱った時、おばあちゃんが"幽世"の話をした時、それらを聴いたのは三葉ではなく、彼女になっていた瀧でした。そのように演出されて描かれた事は、少なくとも絶対に偶然ではないハズです。三葉は自分が幽世の存在である事に、途中までは気付いていなかったのではないでしょうか?ただ、星が落ちる事を知って東京へ行く事を決心した時には、あるいは、自分がそうだと気付いていたのかもしれません。
※動画投稿版コメントにおいて指摘いただきました通り、黄昏時を聞いたのは三葉の方でした。慎んで訂正いたします。瀧が幽世に入る、三葉が東京で黄昏時に瀧を見付ける、とするなら、むしろ、そうでないとダメですね。


昨日の記事では2人の関係について、"交換日記から始まる遠距離恋愛"と比喩しました。この比喩の意味するところは、言った自分でも最初はよく分かっていませんでした。入れ替わり生活を通して互いの事を深く知り、その時の出来事を日記に付けていた事を指して、文通での交換日記を通して互いに惹かれていく様のようだ、と、そう表現していました。しかし、劇中で瀧が三葉に出会った時、「凄く遠いところにいた」と言っていた意味を考えた時、自分が遠距離恋愛と表現した意味がわかりました。これは"新宿と飛騨"という物理的な距離や"3年"という時間的な距離ではなく、それ以上に、"現世と幽世"という霊的な距離を指していたのではないでしょうか?本当にどうしようもなく遠い距離です。新海監督がこれまでに描いてきた、星を隔てる物理的な距離や年齢を隔てる時間的な距離を扱った恋と比べても、本当にどうしようもない距離です。ただし、この作品において、幽世がそのまま死者の世界として解釈されているかといえば、それは違うのではないかと思います。そうであるならば、超弦理論がメタファとして説明されていないハズです。ここでいう幽世とは、"シュレディンガーの猫"のような、可能性の定まっていない重なり合った世界ではないでしょうか?
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これを踏まえると、三葉が瀧と奥寺先輩のデートを後押しした時、「今日のデート、私が行くハズだったのにな…」と言って涙する意味の重みが大きく変わってきます。初見だと、"本当は、私が瀧くんとデートしたかったのにな…"と捉えられる場面ですが、実際は、もっとどうしようもない感覚に対する涙であったように思います。そして、上京した三葉が電車に乗る瀧を見つけ、赤面して俯きながら「瀧くん…。瀧くん…。」と繰り返し呟く場面。本当に愛おしそうに、何回も名前を呟く場面。この時、彼女にあったのは、この広い東京で彼に出会えるわけがなかったのに、という思いではなく、同じように、もっとどうしようもない感覚だったのかもしれません。ただ、あの時2人が出会えた理由も、その感覚と同じ理由なのではないかと思います。あの時は、ひょっとすると黄昏時だったのではないでしょうか?
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これらの2つの場面が、自分には物凄く心に刺さったように思えました。その理由をこうして考えてみた次第です。そうして、"三葉は瀧を幽世でずっと待ち続けていた"という考えに行き着いた時に、どうしてここまで、自分がこの作品に惹かれるのかがわかった気がしました。わかっただけで涙が止まらないのに、映画館でもう一回観たら、そこで号泣してしまいそうで、これはもう、気持ちが落ち着くまで観に行けないかもしれません。

最後に、三葉は瀧に助けを求める為に、彼に会って髪留めを渡したわけじゃないと思います。瀧に恋したから、星が落ちるその前に三葉は彼に会いに行って、それで縁が結ばれたんです。そうして結ばれた縁から、星が落ちるその前に、彼女に恋した瀧が三葉に会いに来たんです。色々と理屈をこね回しましたが、それが何よりも良かったんです。すべてがこの一点に収束するよう、リアリティではなく、説得力を持っていた事が良かったんです。これはまさしく、新海誠監督が描いてきた"セカイ系"の系譜にある作品だと思います。

追記:映画の公開日である8月26日は、超弦理論を統合したM理論の提唱者"Edward Witten(エドワード・ウィッテン)"の誕生日だそうです。不思議な縁ですね。SFというジャンルがもっと面白く、間口の広いものでありますように。

スライドとして動画に編集しました。

王道万歳!!ベタ最高!!古き良きセカイ系かもしれない『君の名は。』ネタバレ感想と考察

君の名は。』観てきました。思った事を幾つかまとめてみます。

もう観たという方、ネタバレOKという方は下記へスクロール。 

 ちなみに、新海誠作品で観た事があるのは、『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』『猫の集会』『クロスワード』の5作品。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シナリオはPVを観た時の予想通り、大筋は乙一の『きみにしか聞こえない』のSF要素を強化した上で、男女入れ替わりネタを主軸とした感じのモノ。そのベタさたるや、隕石関連の結末を読めない人はいないんじゃないかと思う。

しかし、じゃあアニメとしてダメなのかというと、そんな事は全くない。

 

・作画について

登場人物の動きは非常に細かく、だからこそ入れ替わった時の一挙手一投足に笑える。下ネタの天丼をしたいが為に、おっぱいを揉む描写に拘ったわけじゃない事は、作品をちゃんと観た人ならわかるんじゃないかと思う。そして、前作から引き続き描かれる東京(主として新宿)の街並み。現実のそれよりもなんとなくキラキラした感じで、それは三葉の憧れのフィルターを通しているからかもしれない。飛騨の情景はそれほどキラキラとはしていないが、空気の澄み具合が違うから、本来は逆だろうと思う。実際、幽世にある御社を最初に訪れた時は、瀧視点で描かれた為か綺麗だった。あと、舞台が細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』と近いので、描かれ方のタッチの違いを比べてみるのも良いかもしれない。

 

・音楽について

全編に渡ってRADWIMPSが担当し、ボーカル曲とインストゥルメンタルが併用されている。実際に観るまではOPアニメが用意されているとは思ってなかったので、ここから意表を突かれた。作品の内容として、"RADWIMPSの超豪華なMPV"と言っても半分くらいは説明出来るんじゃないかと思うが、これは、挿入歌の場面のアニメーションの持つ情報量が、非常に大きいからではないかと思う。入れ替わり生活を目まぐるしく描いた場面、「入れ替わりは週に2、3回」という台詞から、おそらく最低でも1ヶ月、ニュアンスによってはそれ以上の時間が描かれた事になる。互いにぶーたれながらも、入れ替わり生活を謳歌する2人の様子が、矢継ぎ早に飛ぶ台詞の応酬と、速いテンポで切り替わるカット割、そして、挿入歌の歌詞によって描かれる。多分、あの数分だけ切り取っても短編アニメとして成立するし、これは、短編アニメも多く制作してきた監督の色だと思う。入れ替わりについて具体的な説明を挟むのではなく、ある意味で独立したアニメーションとする事に、挿入歌の貢献度は大きいのではないかと思う。

 

・SF要素について

よくよく考えると、タイムパラドックスの要素がシナリオの根幹にある事がわかる。劇中の説明として、三葉が夢の中で入れ替わる事については、血筋である事が何度か語られている。過去に同様の災害があった時もそうだったようなので、隕石の落下もきっかけの一つだとわかる。しかし、それだけでは相手が瀧である理由付けにはなっておらず、その必然性は物語の終盤で明かされる。それは、文字通り、三葉が自分で選んで瀧と縁を結んだからなんだけど、ここで時間がループしてる事になる。この点、説明が投げっぱなしかと言えばそんな事はなく、前半のお婆ちゃんと糸織りをする場面でちゃんと理由が語られており、思い返してみると、あの場面がこの作品のSF考証の根幹だとわかる。これは、神酒に関しても同様の演出がなされていたと思う。なお、ループしているのは、あくまで2人の出会いのきっかけだけであって、紐細工の髪留めはループしてない。名前を思い出せなくなった原因は、多分、コレ。

 

・ガール・ミーツ・ボーイ要素について

互いの身体が入れ替わるというかなり特殊な状況ではあるけれど、本質的には、最初は反発しあっていた2人が、交換日記を通して互いに惹かれていく物語だと思う。交換日記の媒体がスマホだから、ぱっと見はそんな感じしないけど、やってる事はまさしく、遠距離恋愛一歩手前の文通。だから、瀧が先輩とデートするってなった時、2人とも浮かない感じになってる。手紙では相手の事を応援してたんだけど、その時には2人の気持ちはもう…ベタだ。三葉の「今日のデートは私が行くハズだったのにな…」なんて、映画館じゃなかったら絶対に悶絶してる。その時、三葉が泣いてた理由なんてわかりきってる。でも、「2人はこの後会えるのだろうか?」という不安が常に付きまとっているから、わかりきっている事が問題にならない。三葉が上京した時のしおらしい感じとか、実は3歳差で歳下の男の子の名前を赤面しながら繰り返し呟くとか、糸織り細工の髪留めは赤い糸のメタファだろうとか、手の平に書いたメッセージとか、何もかもがベタだが、2人は会えるのかという不安が最後の最後まで続くから、全然問題にならない。その上で、ラストにフェイントを畳み掛けるから卑怯。

 

セカイ系と表現した事について

一応、友人たちの力を借りたし、直接の描写は無かったとは言え、あの後町長は重い腰を上げた事は劇中でも示唆された。それでもセカイ系だと思うのは、三葉の最後の行動原理が、手の平のメッセージに他ならないと思ったから。仮に、あの後住民たちが一丸となって、みたいなシーンがあった場合、その辺がブレて『サマーウォーズ』みたいな雰囲気になるだろうし、そうなると瀧が置いてきぼりになる。あくまで2人の物語として展開された以上、この作品は古き良きセカイ系の系譜だと思う。

 

※追記 上記だと内容があまりに表面的だった為、全面的に書き直しました

 

ker-cs.hatenablog.com

 

ネタバレ感想『シン・ゴジラ』

初日と翌日、『シン・ゴジラ』を2日連続で観てきました。

もう観た方、ネタバレ大丈夫という方だけ下記へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あらすじは他の人が書いてるだろうから、思った事だけ羅列して。
ゴジラの知識は、平成のvsシリーズ全作観たのと、それ以前の作品は虫食い状態の視聴。
あと、ちょっと横道に逸れた所では、平成のガメラ三部作とモスラ三部作は観た。

・総評
観て、すごく満足感があった。面白かったというか、すごかった。
ヒューマンドラマ要素皆無なのに、所々泣けるし、人間賛歌してる感じが伝わってきた。不思議。人間賛歌というより、究極の単一生命体ゴジラに対して、群体としての生命である人間の底力、強さをこれでもかと描いていたように思う。
ゴジラシリーズをそれなりの本数観てきたけど、ゴジラを恐ろしいと感じたのは初めてだった。絶望感で泣ける映画ってのもそうそう無いんじゃないかと思う。
映画館を出た時、東京の街並がいつも通りで心底安堵した。

ゴジラについて
まず思った事は「誰だお前は!?」って事。「徹底的に情報統制されてたけど、別の怪獣も出てくるのか?」「こいつをゴジラが踏み潰すのか?」等、初見ではこの辺、色々と混乱しながら観てた気がする。で、立ち上がった瞬間に「お前がそうなのかよ!!」って。ここまで来たら、ゴジラのイメージとかCGの違和感とかは頭の中からは消し飛んでた。
中盤まで話が飛んで、放射能熱線のシーン。ここはもう「終わった…」と思った。もう長い事、どちらかというと対怪獣、対兵器として使用されてきた放射能熱線なだけに、これが真っ向から人類に向けられた描写が、これほど恐怖心を煽るとは思わなかった。それこそ、核攻撃で東京に穴を開け、共倒れする結末も有り得るんじゃないかと覚悟した。

・会議シーンついて
会議シーンが多いというのは、この映画を観た人なら誰でも感じる所だろうと思う。では、退屈だったのかと言えば、とにかくテンポが早いので、自分はそうは感じなかった。むしろ、矢継ぎ早に字幕が挿入される為、退屈どころか息つく暇もないくらい。おそらく、初見で全てを理解させる気は無いに等しい構成になっていたと思う。それでも、大筋の対応くらいはだいたい分かる情報量だったし、時々笑いを挟んで息抜きさせつつ、短いカット割で進行することで長さを感じさせないようになっていたと思う。

・カット割について
とにかくカット割が非常に多い。多い時はカメラ7台同時に回したというのも納得の多さ。上記の通り、これは全体のテンポを良くする事に寄与してたと思うんだけど、それとは別に、所々に挿入される長いカットのシーンを際立たせていたように思う。個人的に印象的だったのが、おばちゃんがおにぎり配るシーン、国連が核攻撃を決定した後総理代行が「そうだよなぁ…」って呟くシーン、海外の研究機関のおばあちゃんが「人間を信じましょう」と語るシーン、ヤシオリ作戦開始時の矢口の演説etc...etc...。状況説明は徹底的に短縮する一方で、割くべき所には絶対的に時間を割いていたんじゃないかと思う。

・登場人物について
キャラが多過ぎるので、感情移入した人、しなかった人がいるけれど、個人的には劇中登場した総理のキャラが、対称的で面白かった。ちょうど場面が大きく転換する所での交代という事もあり、個性が際立っていたように思う。冒頭で優柔不断さを見せていた総理が、自衛隊に攻撃中止を命令するシーン、賛否あるだろうけど、それまでの積み重ねがあった上でのアレはカッコ良かった。一方の総理代行は、最初は頼りなさそうな感じがあるんだけど、だんだんと物事に動じない大物振りが垣間見えて、劇中で評された通りの狸だったなと。
劇中ではキャラクターの情報について、必要最低限、それこそ、戦闘単位としての役職程度の紹介しかされていないのだけれど、背景美術やちょっとした行動から、映画を観た人達の中で勝手にキャラ付けされていく様が興味深い。秋田県出身の総理とか、おにぎりのおばちゃんとか、あとは、制作も想定してなかったであろう"水ドン"の謎の人気とか。魅力的なキャラクターを生み出す上で、細々と説明する必要なんて無い、なんて事実を突きつけられてる気がした。
あと、パトレイバーへの既視感の正体が、防衛大臣を演じた余貴美子さんの声質が、パトレイバーでしのぶを演じた榊原良子さんの声質に近いからだ、と思って一人納得してるんだけど、同じ感想を持ってる人がほとんどいない不思議。最初は、スタッフロールの企画の所に、ミニパト監督の神山健治さんの名前があって、それが既視感の原因かとも思ったりしもした。

自衛隊の戦闘とヤシオリ作戦
ゴジラシリーズの戦闘って、現場の指揮でドンパチやってる印象があったので、指揮系統のリアルな描写はすごく新鮮だった。あれだけ伝言ゲームの描写を入れつつダレないってのは編集の妙なんだろうなと思ったのと、弾が外れて被弾した周りのビルが爆発する、倒壊したビルがなぜか爆発する、みたいなよくある描写が一切無くて、会議シーンだけでなくて、戦闘シーンも含めてドキュメンタリーを観ているような気分だった。
ヤシオリ作戦は一見すると地味。だけど、あれ以上派手にされたら胃がもたれそうなのと、ファンタジーに突き抜けてしまうだろうから、あれ以上の描写はないように思う。新幹線が登場した時は一瞬何が起こったのか分からなかったが、アレが爆発した瞬間に素直に感嘆した。で、"無人在来線爆弾"が登場した時には、「これは人類勝ったぞ!!」と謎の確信を持った。

最後に、今年の流行語大賞は"無人在来線爆弾"で決定して良いのではないだろうか?

自主制作アニメを語る

twitterでの紹介に加筆修正したモノ。リンクは下記マイリス。

 

『恋するネズミ』
毎夜、街中のチーズを盗んで回る泥棒ネズミは、ある時忍び込んだチーズ売り場で、美しいチーズに出会い一目惚れ。彼女(?)を食べる事なく、その美しさに見惚れる日々を送るようになるが、彼らの間には賞味期限というタイムリミットが迫っていた。
全編に渡り合成音声による英語音声に日本語字幕。それがかえって自然に聴こえる要因となっている。結構深いラブストーリー…かもしれない。

『Echo~世界に一人の女の子と映写機の話~』
文明が崩壊し、人々がいなくなった世界。ガイノイドの少女と相棒の映写機は、荒廃した世界を旅する途中、人々が遺した大切なモノに巡り会う。思い出に触れた映写機が過去を映す時、込められた想いに触れていく。
切り絵のカートゥーンのようなデザイン。温かみのある色遣いやピアノの劇伴で、設定に反してほっこりする作品。現在3話まで公開されている。

『お願い!モンスター』
ヒロキ君へのラブレターを鞄に入れるか迷う少女は、結局それを机の引き出しに仕舞ってしまう。しかし、突然ラブレターが羽ばたき、勝手に外へ飛び出し彼の所へ一直線。裸足で慌てて駆け出した少女は、何とかラブレターを読まれる前に抑え込むが、ラブレターは突然怪獣に変身してしまう。
怪獣が暴れ回り、街が色々と大変な事になっているが、全編通して可愛いアニメとSEでそれを感じさせない作風。この後一体どうなった!?

『宮子』
女子高生"宮子"は、トイレの鏡越しに目が合った美しい女性に目を奪われ、赤面して目を反らす。それ以降、いく先々でその女性の姿を目撃しては、カメラに収め写真を部屋に貼り付ける日々。やがて憔悴していく宮子、ついには女性が自宅にまで現れる…。
MVとして制作された作品。内容はハッキリ言って心臓に悪いが、楽曲と台詞音声のバランスが商業作品では見られない独特なモノであり、非常に引き込まれる。

『CHILDREN』
薄暗い空に覆われた街に、工場の煙突が立ち並び、犬は毎日列車に撥ねられる。番号で区別された生徒達は口を閉ざし、皆同じゲームの得点を取り、皆同じテストの点数を取り、皆同じ絵を描き、その様子を、教師は笑顔を絶やさず見守っていた…。
これらの描写は設定されたディストピアのファンタジーなのか、あるいは、現代社会の縮図としてのメタファなのか。観た人は色々考えると思う。

『ドルチェグエラ 御菓子戦争』
学校給食をこっそり残して持ち帰り、ごみ捨て場へ捨てる少女。その時、突然地面が抜け、少女はお菓子の世界に迷い込んでしまう。なんでも今は、お菓子を取り合い戦争中。お菓子が無くなった原因は、外から来た異物らしいのだが…?
NHK教育で放送されているような、道徳的内容を扱った寓話のアニメ。ちなみに、登場人物が皆ロリコンだが気にしてはいけない。

『rain town』
「その街はいつからか雨がやまなくなって人々は郊外や高台に移り住んでいった。「rain town」。人々の記憶の底に沈む 忘れられた“雨の街”へ時折、誰かが迷い込むという…。」(動画紹介文より一部原文引用)
ゆったりとしたピアノに乗せて、少女とロボットとの交流を描く。注意深く観ると、劇中ではかなりの年月を描いている事が分かる。

鬼斬娘』
刀を携えた幼い少女が鬼と対峙し、彼の大切なモノを切り落とす。それから時が流れ、再び対峙した両者。激しく斬り結ぶ中、怒り狂った鬼が異形の姿を取るが、ある事を切っ掛けにして、少女は鬼の本質を知る事になり…?
冒頭はflashのような鉛筆作画のアニメ。そこから一転して、後半は全てカラー作画。激しい動きのアクションを魅せる作品。

『春を彩る』
入院した画家のおばあちゃんから、アトリエの鍵と未完成の絵を託された少女は、絵を完成させるため、そのモデルとなった思い出の桜の木を目指す。
ストーリーは、シリアスとコミカルが交互に入り交じった作風。基本はアニメ塗りで描かれているが、時折水彩画のタッチに切り替わる場面が印象的。

DAICON IV オープニングアニメーション』
第22回日本SF大会において、オープニングを飾った作品。制作者達は、言わずと知れた後のガイナックスの創設メンバー。

 

以上、10作品。自主制作アニメは、商業アニメとは異なる独特な演出が魅力的で、色々と観てみると面白いと思います。

障害とは?ハンディとは?右手の無かったおじいちゃんの話

思うところがあって色々書いたので、残しておこうと思います。

自分の祖父は自分が生まれる前から右手が無かったし、祖父が事故の事を子供向けにおちゃらけて話すのを聴いて、子供心に「そういう(手がちょん切れちゃう)事もあるのか。自分もあるかもな」なんて思ったりしてました。後天的に人間どうなるか分からない、というこの考えは、今に至るまで一切変わってません。自分が所属するコミュニティが小さいうちは、世の中のおじいちゃんは、結構な頻度で手がちょん切れてるもんだと割と本気で思ってました。自分にとっての現実は"右手の無いおじいちゃん"だったからです。しかし、保育園、小学校とコミュニティの分母が増えるにつれ「アレ?そうでもないの?」なんて思ったりもしました。ただ、根っこの価値観は変わらなかったし、それで良いと思ってます。
ここで大事な事って、それ以前に、自分は祖父を技術者として見ていた事にあると思ってます。あらゆる工具が家にあって、それを使う所を見てたし、自分もそれを真似ていたし。結果的に自分に色んなスキルが身に付いた事には、祖父の影響はとても大きいです。

差別云々を本気で教育したいなら、そういう後付けの価値観が刷り込まれる前に、子共心が自然と学ぶ他無いんじゃないかと思います。最近は、保育園や学童でもハンディのある子が一緒に通う事も増え、そこで一緒に過ごす子共達は、分け隔て無く他者に接するとも聞きます。ここでいう分け隔て無くという意味は、ハンディがあるから特別視するという事じゃないんです。悪いと思ったら喧嘩もするし、良いと思ったら褒めて真似るし、困ってると思ったら助け合うという、そういう普遍的な事です。障害とかハンディとか、そういう言葉を知ってる事が大事じゃないんです。子供達は"得意"とか"苦手"とか、そういう、誰でも誰にでも使える良い言葉を知ってるんです。

障害とかハンディとか、そういう言葉が悪いという話も有りますが、これは半分正解、半分間違いだと思います。そもそも障害って何?と聞かれた時に、ちゃんと答えられる人ってそんなにいない気もします。ただ、子供達の言葉を借りるのであれば、"ある種の苦手が一定の水準に達している状態"ではないかと思います。この一定の水準とは、それこそちょっとした手作業が苦手、というモノから、生命の危険があるモノまで様々です。この点において、障害があるから、ハンディがあるから、なんて言葉で一括りに出来るものではない、という事が言えるのではないかと思います。では、どうすれば良いのか、子供達が"得意"とか"苦手"とか、そういった言葉を使って、上手い事折り合いを付けてるのを見習うべきだと思います。彼らは、ハンディを抱える友達だから助けるんじゃなくて、困ってるから助けるんだし、障害を抱えた友達だから何か出来た時に褒めるんじゃなくて、素直に感心したから褒めるんです。

CHARAT灰羽連盟アバターず

https://charat.me/avamake.php?con=1

なんだか流行っているようで、上記サイトで灰羽連盟のキャラクターを再現です。

雰囲気重視でそれっぽく作ってみました。

ヒカリが一番原作と差異が無くて、クラモリが一番無理があるかなぁ…?

全てお古だという設定上、キラキラした服だと雰囲気出すのが難しいです。

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新・SFアニメ・漫画を語る

twitter上に投稿したレビューを加筆修正したモノ。

以前のレビューはコチラ↓

ker-cs.hatenablog.com

 

神霊狩/GHOST HOUND』
九州で酒蔵を営む家で暮らす少年"太郎"は、幼少期に姉と共に誘拐され、姉が亡くなったことでPTSDに罹患していた。彼は睡眠時の体外離脱"魂抜け"を体験するようになり、やがて、同様に魂抜けを体験した友人らと共に、過去の事件の真相に向き合っていく。
原案:士郎正宗、制作:Production I.G、監督:中村隆太郎。スタジオ20周年記念作品。心理学、脳科学、哲学、そして、バイオテクノロジー等のSFと、構成する要素は多岐に渡る。しかしその本質は、親世代から確執を継がなかった少年達の成長の物語だろうと思う。

青の6号
人工増大により人類が生活圏を海洋に求めた未来。海洋の安全を保護する超国家組織"青"に所属していた"速水鉄"は、組織を辞め、沈んだ都市のサルベージを営んでいた。だが、海洋学者"ゾーンダイク"のテロに伴い、"青の6号"に復帰する。
原作:小沢さとる、制作:GONZO、監督:前田真宏。世界初のフルデジタル制作OVAとして制作された。原作は1967年発表とかなり古いが、村田蓮爾によりキャラクターが刷新され、また、設定やシナリオも一部オリジナルのモノとなり、作風は全く古さを感じさせない。

『ぼくらのよあけ』
高性能AIを搭載したアンドロイドが一般家庭にも普及した近未来。宇宙に憧れる小学生"ゆうま"は、アンドロイド"ななこ"に反発する日々を送っていた。ある日、彼女に宇宙から来たAIがインストールされ、自身が宇宙へと帰る為の手助けを依頼する。
漫画:今井哲也アフタヌーン連載、全2巻。宇宙開発やAIの普及等の近未来の描写とは対称的に、少年達の冒険が話の主題となり、ノスタルジックな雰囲気を持った作品。学校での人間関係の確執や親子関係等、例え技術が進歩しても、現代と変わらないであろう葛藤も描かれた。

R.O.D-READ OR DIE-』
学校講師を務める"読子"は、神保町でビブリオマニアとして生活する傍ら、大英図書館特工作部所属のエージェントとしても活動していた。彼女は稀覯本の強奪事件を契機に、クローニングにより蘇った過去の偉人達と対峙する。
原作、脚本:倉田英之、監督:舛成孝二。氏の同名小説をOVAとしてアニメ化した作品。後に本作の続編がTVシリーズとして放送された。日本アニメ史上、オーディオコメンタリーを採用した最初期のアニメ作品でもある。主演を務めた歌手・女優の三浦理恵子さんの声が、舌ったらずで非常に役にハマっている。

『C』
幼少期の経験から、安定志向が強く公務員を志す青年"公麿"は、バイトを掛け持ちしながら苦学生としての生活を送っていた。しかし、日本経済の裏社会"金融街"からの送金に手を出した事を切っ掛けに、自身の未来を賭けたマネーゲームに巻き込まれる。
制作:タツノコプロ、監督:中村健治。監督にとって顔馴染みとなったノイタミナで発表された作品。一見すると、能力バトルモノに見える描写であり、この点が批判される事がある。しかし、劇中に登場する経済用語を理解した上で観ると、ゲームの勝敗にまた違った側面が見えてくる。

『サカサマのパテマ』
かつて、重力をエネルギー転換しようとする実験が失敗し、多くの人々や文明が空に落ちて行った世界。空を見上げる事すら禁忌とされる世界で、少年"エイジ"は地下から落ちて来た少女"パテマ"と出会い、世界に隠された真実を知る。
制作:スタジオ六花、監督:吉浦康裕。第17回メディア芸術祭優秀賞受賞作。王道のボーイ・ミーツ・ガール作品。『ペイル・コクーン』や『イヴの時間』等、監督作品はこれまで限られた空間でのやりとりを主としていたが、今作では行動に制限が掛かる中、外へと飛び出して行った。

スカイ・クロラ
現実とよく似ているがどこか違う世界。そこでは、人々が平和を平和として実感出来るよう、ショーとしての戦争が行われていた。パイロットは皆"キルドレ"と呼ばれる子供達。その一人"優一"は、唯一、本物の大人として戦場に現れる"ティーチャ"に挑むが…。
原作:森博嗣、制作:Production I.G、監督:押井守。原作最終巻、及び1巻を元に映像化。青い大空を戦闘機が駆けドッグファイトを繰り広げる、それだけで満足と言っても過言ではない作品。テーマとしては、若者が、大人に負けてもへこたれずに何度も挑む先品、と自分は受け取った。

『楽園追放』
ナノマシンの暴走により地上文明が崩壊し、人類の大半は自らをデータ化し電脳世界"ディーヴァ"で暮らしていた。地上からのハッキングを繰り返す正体不明のクラッカー"フロンティア・セッター"の調査の為、保安局はエージェント"アンジェラ"を派遣。彼女は、地上に暮らす協力者"ディンゴ"と共に、その正体を突き止めるが…?
制作:東映アニメーション、監督:水島精二。全編に渡りフルCGで制作されたオリジナル劇場アニメ。アニメーションはグラフィニカによって制作され、良い意味でCGっぽさを感じさせない作り込みが為されている。公開前は脚本担当が虚淵玄であった為、例によって白か黒かと話題になったが、本作は夢と浪漫のあるSF作品。

AKIRA
荒廃した大都市を舞台に、日々、改造バイクを乗り回し、暴走族と抗争を続ける"金田"と仲間達。その最中、仲間の一人である"鉄男"は、子供のような老人を跳ねてしまう。それをきっかけとして超能力に目覚める。これまでとは打って変わり、高圧的な態度で周囲を圧倒していく鉄男だったが、やがて、その力が暴走する。
原作・監督:大友克洋、制作:東京ムービー新社(現在はトムス・エンタテインメントと合併)。同名コミックを原作者自らが指揮を執りアニメ化。信じられない事に全編に渡り手描きのセルアニメバイクのテールランプも崩壊する建造物も全て手描き。日本アニメ史上のオーパーツと言っても過言ではない。

新世紀エヴァンゲリオン
幼少期に自らを捨てた父"ゲンドウ"に、第三新東京市へと呼び出された"シンジ"は、そこで、巨大な怪物と巨人の戦いを目撃する。父の遣いとして現れた"ミサト"に連れられ、彼が逃げ延びたジオフロント。そこで彼は、地上で目撃した巨人、"汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン"への搭乗を強要される。
原作:ガイナックス、漫画:貞本義行。アニメ放送に先駆けて連載がスタートした漫画版。キャラデザのお貞氏本人が担当した事もあり、全編通して作画が非常に美麗。基本的なあらすじはアニメと同じだが、オリジナル展開により人間関係が掘り下げられ、また結末は大きく異なる。幾度もの長期休載を挟みながら、無事、完結した。

 

以上、10作品。