六連星手芸部員が何か書くよ

基本的には、ツイッターに自分が上げたネタのまとめ、アニメや漫画の感想、考察、レビュー、再現料理など。 本音を言えばあみぐるまーです。制作したヒトガタあみぐるみについて、使用毛糸や何を考えて編んだか等を書いています。

個人的にこうだと便利だなというTwitterの仕様について

さて、私は自分で読み切れる分量以上の情報をTLに流さないよう、フォローをかなり絞っている節がありますが、それでも最近のTwitterは強制表示が情報過多になっていると思います。強制というのがツールとして扱い辛いところで、可能ならば各々の機能がカスタマイズ出来ると不満も解消されると思うのです。思い付く事を羅列すると…


リツイートの複数回表示のオンオフ

・TLのフォロー先の「いいね」表示のオンオフ

・フォロワーのTLへの自分の「いいね」表示のオンオフ

・鍵アカウントのカスタマイズ(リツイートのみ禁止、いいね禁止などのオンオフ)

・センシティブ設定のユーザー毎の個別設定(大抵は倫理観のあるまともな人が石橋を叩く感じで設定しており、そういう方の設定は個別に解除したい。そうでない人はブロックリスト行きである為、一括設定は現状ではあまり機能しない)

・ミュート、ブロック相手のツイートの完全非表示(キーワード検索やトレンドでは普通に表示される)

・アカウントの検索履歴のカスタマイズ(個別に削除出来ない。一部のアプリでは可能らしいが)


下記の以前の記事から引用しますが、現状の仕様に関しては、おそらく、「FF内の関係性において、より広範に趣味嗜好について認知させ、横の繋がりを増やして広告のプロモーションを強化する」というような狙いがあるのでしょう。しかし、コミュニケーションツールとしての扱い辛さが前面に出てユーザーが離れれば本末転倒。上記に挙げた個別設定などは技術的に面倒かもしれませんし、開発サイドの意図は汲みますが、もう少し自由度が欲しいところです。

最近のTwitterの仕様でモヤモヤしてる事 - プレアデス手芸部員が何か書くよ

ファンタジーに対する誤解〜『おおかみこどもの雨と雪』を考察する

・率直に言ってどういう映画なのか

結論から言いますが、ハンディ(障害)を抱えた子どもを育てるお母さんが事故で夫を亡くしてシングルマザーとなり、都心で子どもたちを育てる事に限界を感じて田舎に引っ越す、という内容です。よく、「スーパーお母さんが非現実的」とか「自然礼賛が受け入れられない」とかいった批判を目にしますが、実態はそういう内容ではないです。前述の通り、あの一家は所謂一般家庭ではないですし、田舎に引っ越した理由も明確に描写されています。そして、物語冒頭でおおかみこどもの雪から、この物語が母親の語る「御伽噺」である可能性に言及されています。この作品に対しては「ファンタジーで現実味が無い」という批判も目にしますが、冒頭のナレーションの意味を頭の片隅に置いて視聴される事をお勧めします。


・富山の山中への移住は自然礼賛か

まず、舞台として富山の立山連峰が選ばれた理由の一つは、ここが監督の地元だからですね。

そして、都心から田舎への引っ越しを決めた理由ですが、まず第一に、おおかみこどもの夜鳴きやバタバタと騒いでしまう状態が、近隣住民とのトラブルになった事、そして、おおかみこどもである事を発覚させるわけにはいかず、三歳児検診を受けさせられなかった事が虐待と見做されて児童相談所に通報された事が挙げられます。現実においても、子どもが何らかのハンディを抱えている可能性を確定させる事を躊躇い、親御さんがそういった疑いのあるお子さんに検診や予防接種を受けさせないという事はままある事です。この一連の描写は、こういった観点で言えば非常にリアリティがあったのではないかと思います。田舎に引っ越したのは自然礼賛が理由ではなく、あの物理的に開けた環境が、おおかみこどもたちの生まれ持った特性に合っていた為です。


・雨の生き方とラストシーンについて

人間社会に適応して生きて行く事を決めた雪に対して、狼としての本能が強く働く雨は、学校を離れて母親の勤め先に付き添いヒトの姿で山について学ぶ傍ら、山の長である老いた狐に師事して狼の姿で自然の中を駆け回ります。そして、最終的には母親である花の元を離れて狼として生きる事を選択するわけですが、このラストシーンについて「親として無責任」と評するのは一般的な価値観ではそうなのかもしれません。しかし、これは決して差別的な意味合いではないですが、健常者の親とハンディを抱えた子どもが同じ価値観の中で一緒に生きられるわけではない、という事をメタファとして描いた上で、それでも、そういう生き方を受容して笑顔で送り出す事は出来るよね?という事を伝えたいのだと思うのです。花は雨に対して「あなたに何もしてあげられてない」と涙します。私は決してそんな事はないと思うのですが、これは、それでもという親の愛情と、子どもの事を全ては理解してあげられなかった、という叫びでもあるのではないかなと思います。


おおかみこどもの雨と雪』は、主人公が”おおかみこども“というファンタジーの存在である為に物語として向き合う事が出来ますが、もし、姉弟をリアルに"ハンディを抱える子ども"として設定し、描写してしまった場合、とてもではないですが描写が生々しくて観ていられないシナリオだと思います。したがって、この作品はファンタジーとして描写する事でリアルさを削いでいますが、一方でそれは、作品が抱えるリアリティをそのままの形で物語に盛り込む為の装置であると言えるのではないでしょうか?

『未来のミライ』を解説する

細田作品フォロワーの私も手放しで絶賛したりはしませんが、それでも言い掛かりとしか思えないレビューや感想が目立つ様に思います。家族じゃなきゃダメなのかとかお兄ちゃんやんなきゃいけないのかとか、そういう風に憤慨してる人が多い印象ですが、それはあの家族やくんちゃんの話であって、別に押し付けるような内容ではないですしそれで駄作だって言ってる方は筋違いだと思います。では、実際はどういう作品だったのかいくつかピックアップして解説してみようと思います。

 

・なぜ場面がコロコロと転換するのか

予告編を見る限りでは「くんちゃんが未来のミライちゃんと一緒に冒険を繰り広げ、その結果としてお兄ちゃんとして成長する」というような物語を期待していた方が多いのではないかと思いますが、実際は、現実とファンタジーの世界がコロコロと転換し一大冒険スペクタルは最初から最後まで起こりません。家族アルバムをパラパラとめくって写真にまつわるエピソードをオムニバスに描くような話です。この点について肩透かしを食らった事も本作の評価を下げる要因となっているのではないかと思います。ただ、この描写は4歳児のファンタジーを描く上で間違ったモノだとは思いません(結果として面白い描写になるかは別問題ですが)。今作は、妹が産まれた4歳児のくんちゃんがぐちゃぐちゃになった感情や心のうちをファンタジーの中で処理し心の安定を図っていくモノであり、その為に現実とファンタジーとがコロコロと転換しているのだと思われます。


・きょうだいが産まれた4歳児の行動とは

本作のくんちゃんの行動をざっと列挙すると…


・部屋を散らかす、片付けられない

・未来ちゃんにちょっかいかけて泣かせる

・新幹線のおもちゃで打とうとする

・お気に入りのズボンが無いとお出掛けを嫌がる


など、あまり見ていて気持ちのいいものではありません。ただ、これらの行動は多少は描写が誇張されている面はありますが、きょうだいの産まれた4歳児の行動としては結構リアルで、実際にそういう状況に陥った4歳児は「おにいちゃんでいるのイヤ!!」と言って幼児退行する事はままある事です。お片付けなど出来ていた事が出来なくなったり、おねしょ癖が復活したり、一見すると理不尽とも思えるわがままを言ったり…、劇中のように激しく幼児退行する場合もあれば、ある日お風呂で「おにいちゃんイヤ…」とボソッとこぼす場合もありますが、いずれにせよ、そうして赤ちゃん返りする事で、失われた(と、本人は危機として思っている)愛情を取り戻そうとするわけです。でも、それだけでは上手くいかない為に心の中のファンタジーで現実に対抗して折り合いを付けようとするわけです。本作の描写がファンタジーに振り切れていない為にどう受け取っていいかわからない、という感想も見られましたが、これは実際にその通りで、本作のファンタジーはくんちゃん心のうちのファンタジーという意味合いが強い為に、観客としてはノリ切れない微妙なニュアンスで描かれていると思います。なので、4歳児をきちんと描くという点においてはあの描写で正解だと思います。ただ、エンタメとして認識するには敷居が高いな、というのが率直な感想です。


・どうして両親や祖父母のくんちゃんへの態度がおざなりなのか

怒るのと叱る(諭す)のは違うとよく言ったものですが、お母さんのくんちゃんへの接し方って前者が多かったですよね…。これが何故かというと、劇中で描かれた通りお母さんのお母さん(くんちゃんのおばあちゃん)の接し方がおそらくそのまま影響してしまっています。はっきりとは理由は描かれていませんでしたが、お母さんも弟さんとの事で荒れていてそれで大目玉を食らっていましたよね。これもままある事なのですが、あまり良い状況とは言えないです。

お父さんに関しても、くんちゃんの自転車の練習を見てあげるのと未来ちゃんのお世話とを両立出来ず、くんちゃんを泣かせてしまいましたよね。まあ、両立させる方が無理というものですが。その後に、実際に手を掛けるのではなく声援を送り続けて父子の繋がりを持つ場面は、親子の関係の描写としてなかなか良かったと思います。…が、この時実はくんちゃんの心が後述の曾お祖父ちゃんとのエピソードに感化されていて、お父さんはいい感じになってるんですけど若干チグハグな印象になってしまっているので勿体無い感じがありました。そこで祖父母くらいはくんちゃんに…と思うのですが、おばあちゃんがくんちゃんの代わりにお片付けをしてしまったり、おじいちゃんが未来ちゃんの写真を撮るのに夢中になっていたり、うーん…良くない。でも、ままある事なんですよね。そういう意味でもストレスとして感じた方もいるのではないでしょうか。身につまされるというか。そこで、下記の曾お祖父ちゃんのお話です。


・曾お祖父ちゃんのお話

さて、本作のオムニバスエピソードの中で曾お祖父ちゃんとの邂逅は一際異彩を放っていた、と多くの方が思ったのではないかと思います。エンドクレジットのキャスト欄でも、芸能人のゲスト声優の中でも特にシークレットゲストという感じで、明らかに内外で特別感がありました。曾お祖父ちゃんがまたイケメンなのですが、演技もそれに合致した自然体な感じで凄く良かったと思います。タイトルこそ『未来のミライ』なのですが、これ、『曾お祖父ちゃんとの夏』ってタイトルなんじゃないかってくらい尺が取られてます。個人的には、映画丸々一本、過去にタイムスリップしたくんちゃんと曾お祖父ちゃんとの一夏の冒険を描いた方がよほどエンタメになる題材なのでは思いました。戦争で負傷した話、曾お婆ちゃんを射止めた話、くんちゃんとの乗馬、バイクでのツーリング、自転車に乗れるきっかけ…、エピソードとしても盛りだくさんです。曾お祖母ちゃんがまた可愛いんだ…。そして何より、かっこいいメカでくんちゃん(と、観客である私)の男の子心を刺激し、高い抱擁力でくんちゃんの甘えたい欲求を満たし、それでいてちゃんと自立も促してくれる大きな存在です。やはり、これだけを主軸にした方が良かったんじゃ…。でも、そうすると兄妹間の葛藤というテーマからはズレてしまうんですよね…、難しい問題です。次はこういうお話を描いてくれないかな…。


・総括

予告のあり方にも問題があったと思いますが、観客が期待したモノと実際に上映された内容とが不一致であった感は否めません。それでも、4歳児をきちんと描くという試みそのものは上手く映像に落とし込まれていたのではないかと思います。ただ、それがエンタメとして成功しているかは難しいところで、本作のエンタメ要素は曾お祖父ちゃんが全て掻っ攫っていってしまいました。リアルに描くというのはなんとも難しい問題です。

けるさん家の今日のご飯 2018年7月

孤独のグルメで紹介された風ニラ玉

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とり大根出汁の南瓜の煮物

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じゃがいもときのこのアヒージョ

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キャベツはどうした!?

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輪るピングドラム』より、毎月20日カレーの日

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鳥カツ

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wf2018s 8-20-09 六連星手芸部お品書き

・前書き

あみぐるみを始めて3年になりますが、ちゃんと人様に渡せるモノを作りたいという気持ちが高じ、今回参加する運びとなりました。許諾頂いた制作キャラクターは『ガールズ&パンツァー劇場版』より、ボコ、愛里寿のボコ、レアボコの3種の販売、『ハクメイとミコチ』よりハクメイとミコチの展示となります(ハクミコは当日公開)。価格設定は色々と考えましたが、概ね制作時間から設定しています。高いか安いかは個々人の価値観に委ねますが、編み図の制作から始まり、全て手編みのフルスクラッチです。制作個数に関しては、漫然と作るのでは普段と変わらない為、自分にそれ相応の制約を課す意味合いもあってこうしました。(時間の制約があると、必要に迫られて時短出来る新しい編み図を考案出来た事などが副産物でした。ただ、結果的に不測の事態に対応出来ていない現状なので、無茶な設定だったと反省もしています)

 

あみぐるみボコ

あみぐるみ愛里寿ボコ

あみぐるみレアボコ

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価格:各種5,000円

決済:現金のみ

数量:各15個(多くて…無理かも…)

形態:完成品

全高:約9cm

重量:約15g

 

・展示について

展示品5作品は全て、手に取って触れる形にします。あみぐるみを初めて目にするという方も多いでしょうし、それが最も良い形だと考えました。その際の諸注意としては…

 

・汚れた手では扱わない事

・乱暴に扱わない事

 

という事を大原則とします。ノンアルコールの除菌ウェットティッシュを用意してありますが、レジンや絵具等までは拭えない為、そういった場合は事前にしっかり手洗いをして下さい。また、取り扱いに関しては、いくらボコとはいえ、四肢を引っ張ったり捻ったり、強く潰したり殴ったり蹴ったりはNGです。でも、指先で潰すくらいはOKですので、とりあえず触ってみて下さい。

 

・商品仕様、取り扱い説明書

※準備間に合わないのと、当日悪天候で紙媒体で用意してもぐちゃぐちゃになりそうなので、商品タグにこのページのURL(又はバーコード)を記載しておきます。

 

あみぐるみボコ、あみぐるみ愛里寿ボコ、レアボコ共通

 

全高:約9cm

重量:約15g

素材:アクリルウール混合毛糸

洗濯:不可

 

・諸注意

かなり頑丈に編んでありますが、劇中のようなぞんざいな扱いには耐えかねますので、ご了承下さい。まず自然に抜ける事は無いですが、パーツの接合部で特定の糸を引っ張ると、接合が解けてしまう為注意して下さい。また、金属の突起等に引っ掛ける等すると破れて解れる事がある為注意して下さい。

 

・お手入れについて

洗濯の衝撃でパーツの接合部分の糸が切れたり、脱水が上手く出来なかった場合はカビが発生する可能性がある為、家庭での洗濯はご遠慮下さい。お手入れをする場合は、除菌ウェットティッシュで表面を拭いた後に、風通しの良いところで干して下さい。

※直射日光に長く当てると変色の原因となるため注意して下さい。

 

・ストラップの使用について

上記の通り、あみぐるみの強度そのものは、持ち運びに十分耐えられるものですが、何かに引っ掛けると破損する可能性があります。今回、ストラップ用のタグ等は付属、配布しませんが、利用される場合は自己責任でお願いします。(一応、頭頂部が最も頑丈です)

 

・禁止事項

転売、及び、編み図を解析して複製物を販売する行為は全面的に禁止します。また、転売の失敗や編み図解析の為の分解による破損を理由とした返品にも応じられません。予めご了承下さい。

 

・連絡先

タグに記載

『プリンセス・プリンシパル』一部界隈の暴力表現含む二次創作や考え方に対しての苦言

※一度引っ込めましたが気が変わりました。現状を鑑みるに、やはり、Twitterのコミュニケーションツールとしての仕様やゾーニング、センシティブ設定等への教訓として残しておいた方が良いと判断しました。

言いたい事があれば直接どうぞ。TwitterのDMは常に開けてあります。

 

側から見て、最近『プリンセス・プリンシパル』の一部界隈において、Twitter上で公開されている二次創作の表現の度が過ぎていると感じる事が多く、このような投稿をしています。特定個人を誹謗中傷する意図はありません。クラスタ全体で考えて欲しい問題です。


なぜこんな事を書いているかというと、そもそもは、TL上に「乱暴されるプリンセス」という題材の絵がいきなり流れて来た事がきっかけです。「そんなアカウントをフォローした覚えないのにどういう事だ!?」と、動揺半分、嫌悪感半分といった心境でしたが、原因はTwitterの「フォロー対象のいいね欄をTLに投下する」という仕様でした。

※下記の記事のきっかけになった事です

最近のTwitterの仕様でモヤモヤしてる事 - 六連星手芸部員が何か書くよ


それでも、流石にそんなアカウントはフォローし続ける事は出来ないと思い、即刻フォローを解除しました。また、そういった暴力的な表現に疑問を呈するでもなく、そのようなシチュエーションに対してTwitterの公開された場で「良いですよね」と盛り上がるコミュニティというのが、自分にはどうしても理解出来ませんでした。強姦等の性暴力含む暴力表現に対し、そういったシチュエーションを投稿していく事に賛同するリプライが多く付き、みな口を揃えてこう言うわけです。


表現の自由だから別にいい」


身勝手な理屈だと思います。一次創作ならそれで問題ないでしょうが、ここで問題にしているのは二次創作です。公式に版権取得を申し入れる時、多くの場合は「公序良俗や原作の声価を傷付けない」という絶対条件があり、表現の自由を盾にする方は、一度そういったガイドラインに目を通してみる事をお勧めします。そして、よくよく考えてみて下さい。そういった表現を、例えばキャラクターのデザイナーさんやキャストさんの前で出来ますか?目の付くところに置けますか?


「本人に送っているわけではない」


と、反論される方がいるかもしれません。しかし、Twitterは原則的に公開情報です。その理屈を二次創作で完全に通したいのであれば、鍵アカウントにして身内だけでひっそりやれば済む事です。あるいはSkypeやDiscordの通話で済ませれば良いでしょう?pixivのような外部サイトにタグ付けて投稿すれば良いでしょう?なんでTwitterという公衆の面前でわざわざ開けっぴろげにそんなモノを公開する必要があるんですか?繰り返しますがTwitterは公開情報です。仮想現実でもゲームの世界でもなく現実の延長です。例えば道のど真ん中で「強姦シチュ良いですよね」なんて会話したら確実に通報されますし、それに対して「趣味だから口出ししないでほっといて」なんて言おうものなら任意同行間違いなしです。暴力表現を含め、アングラな趣味や嗜好を否定はしません。ただ、親告罪で黙認されているだけの現状で、暗黙の了解くらいは守ったらどうですか?という事が言いたいのです。


さて、どうしてここまで憤慨しているのかという点の補足をします。私が所属しているクラスタは、製作陣とファンとの距離が非常に近いです。劇中小物や料理の再現について、主題歌を担当された方や他のスタッフさんからリプを頂いたりという事もありました。ファンが作品を見ているのと同じくらい、作り手側の方々もファンの活動に凄く注目しているクラスタです。翌年にのめり込んだアニメでもこの傾向は強く、「プリンセス・プリンシパルはそういう感じじゃないんだね」と仲間内で話したりもしました(むしろ、それが普通なのだと後々に気付きましたが)。

では、そういった一部作品が特殊なのかというと、そうとは言い切れず。少なくとも私の経験では、「この作品のこのシーン好き!!」って叫べば、その作品の監督さんが「このシーン描いたのはね…」と返してくれた事がありましたし、「展示会面白かった!!」って叫べばイラストレーターさんが「いいね!」してくれたし、「漫画の再現料理作ったよ!!」って叫べば、監修者の方にRTされた事もありました。それがTwitterというSNSです。相手が誰であれメッセージは届くし、ポジティブなメッセージが届いているのですから、当然、ネガティヴなメッセージも届いています。見られてないなんて保証は絶対にありません。ただ、そういった経験を多く出来ている事は、非常に運が良いだけなのかもしれません(つまり、こういう経験を得た事が無い方は、このような仕様に気付く事すらないのかもしれません)。


本題に戻すと、実際のところはどうかわかりませんが、『プリンセス・プリンシパル』のクラスタを側から見ていると、例えば、キャストさんやスタッフさんが見ているかもしれない(非公開リスト、サブアカウント、ワード検索、方法は幾らでもあります)、というような状況をどの程度考えているのだろうと疑問に思う事が多いです。繰り返しになりますが、アングラな嗜好や趣味が悪いとか、そういう事を言うつもりは一切ありません。ただ、その表現の場や方法が無秩序に感じられる事があり、誰に向かってどういう方向を目指してのクラスタなのか、と、疑問に感じる事が最近多くあります。もう、何が飛び出してくるかと疑心暗鬼になり、キャラクターやカップリングでの検索が躊躇われる心境です。「ププのアプ」とか「プリンセス・プリンシパルをみて」とか、プロフに書いてる方も多いですが、そんな方が過度に性的な事や首絞めシチュ良いですねとか大っぴらに話題にしていたり、暴力的なシチュエーションの絵を描いたりRTしたり、FavしてTLに流したりしたら、新規層が入ってくると思いますか?解釈違い?一次創作に敬意が無いだけでは?もし、自分が何も知らない作品に触れようという時、そういったアカウントが目立って目に入った場合にどう思うか、よくよく考えてみて下さい。新規層を拡大出来ないばかりか、既存のユーザーですら離れていくのではないかと思います。


上記の経緯あっての価値観の押し付けと一蹴して頂いて勿論構いません。私が所属するクラスタの方が、他のコミュニティと比べると遥かに異質に見えると思います。ただ、考えてもみて欲しいのです。「応援や励ましのお手紙やプレゼントを贈ってくれているのはどんな方なんだろう?」と、添えられたハンドルネームを辿って自分達の投稿が見られた時…ぞっとする想像だと思いませんか?せっかく贈られた方、たくさんいらっしゃるのでしょう?自分たちの参加した企画の取り決めくらい守ったらどうですか?

 

※追記

東方Project神主のZUN氏の発言が私の言いたい事を端的に表現されていたと感じたため、ここに引用します。

博麗神主 on Twitter: "二次創作の限度はね、全てをさらにして自分が二次創作される側になって想像してみればいい。それで嫌だと思う部分が限度だし、ファン活動は相手の限度を想像して始めて成り立つ"

上記で触れましたが、私はここでいう相手というのは、キャラクターのデザイナーさんやキャストさんだと思っています。その点に、相手という対象に触れられないのであれば、二次創作に関してどれだけの持論を展開して、たとえミクロなコミュニティ内でどれだけ承認されようと、それは限度を超えていない証明にはならないのではないでしょうか?そして、誤解されている方がいるようですが、私は二次創作を成立させる上で、その作品が好きかどうかという感情はまた別の問題なのではないかと思います。「相手」という観点を持っているかどうか、今一度考えてみて頂きたいです。

 

なんで、あんな事言ったんですか…。

LGBT含め性別とは何かという3軸評定に関する個人的一考察

※あくまで個人的な見解です


・身体的性別(sex)

LGBT(Lesbian・Gay・Bisexual・Transgender)

・社会性性別(gender)


現在用いられている性別指標は上記の3つの概念が一般的だと思いますが、どれもこれも狭義で使い勝手が悪いんじゃないかなと思ってます。つまり、各々の指標について男性的か女性的かの0か1かという判定が行われている現在の性別観について、それって、そこまで実態に即したモノじゃないよね?って事を言いたいわけです。


・筆者の性別感

実態に即して考えるのであれば、


①身体的性別

②精神的性別

心理的性別


これら3群のパラメータの複合が、個人が自身や他者に抱く性別イメージになっている、というのが本来の実態ではないかなと思います。以下、ザックリ概要を列挙します。


①身体的性別

一般的な指標では、外性器や胸部によって見分けるのが普通ですが、細かく特徴を挙げていくとそんなに狭義なモノではない事が分かります。例えば…


筋肉質↔︎ぷにっと柔らか

大柄↔︎小柄

屈強↔︎華奢

髪が太くて硬い↔︎髪が柔らかく細い

髪が短い↔︎髪が長い

外見上の瞳が小さい↔︎外見上の瞳が大きい

体毛が濃い↔︎体毛が薄い


等々、他にも色々とあると思いますが、どうでしょうか?左側を男性的、右側を女性的と考える人が多いのではないでしょうか?私たちは普段意識せずとも、こういった外見的な特徴の複合として性別を規定しているハズです。また、これらの特徴はこれから下記に挙げるモノも含め、両端どちらかというわけでもなく、スペクトラム状にその特徴が存在しています。


②精神的性別

精神と心理の違いについては定義付けが難しいですが、ここでは精神を「器質的な脳機能」、心理を「観測される行動様式や嗜好」とします。意味不明ですね。実際にイメージしてもらった方が分かり易いと思います。


論理的な会話を好む↔︎情緒的な会話を好む

性愛対象が女性↔︎性愛対象が男性

自己の性認識が男性↔︎自己の性認識が女性


脳機能に関しては研究が発展途上であり、あまりこれといった例を挙げられないです。一応、男性ホルモンを抑制する事で、動物は甘味を嗜好するようになる、といった研究もあり、これは精神的性別に加えても良い気がしましたが、心理的性別と曖昧になるので話だけに留めます。会話に関しても心理的な嗜好かもしれません。最初に挙げたLGBTはこの領域の話になると思われます。もちろん、両性どちらに対しても好意や性愛対象になるという方も大勢います。精神的性別にスペクトラム的な揺らぎなんてあるの?と思われる方もいると思いますが、例えば「男が惚れる男」「漢女(おとめ)」「男の娘」というような言葉も現在ではさして珍しくもないですし、基本的に異性愛だと自負している方であっても、(少しわかる)という感覚の方もいるのではないでしょうか?


心理的性別

最近チラホラ目にするようになった、「異性的な趣味や嗜好を話題にすると、LGBTと混同されて困惑する」といった話は、この領域に該当すると思われます。


カッコイイもの↔︎カワイイもの

ロボット↔︎ぬいぐるみ

戦いごっこ↔︎ままごと

居酒屋で酒↔︎喫茶店でパフェ

機械いじり↔︎手芸

バトル漫画↔︎恋愛漫画

ゲームショウ↔︎ファッションショー


イメージしやすいように両極的に記しましたが、両方好きだという場合も勿論あるでしょう。ただ、左側を男性、右側を女性とイメージする人が多いと思います。しかし、左側に示した特徴を満たす女性が男性を好きな場合もあるし、右側に示した特徴を満たす男性の身体的性別と精神的性別が一致していても何ら不思議ではないですよね?社会的性別はLGBTの話と混同されがちですが、実際はこの領域に掛かるのではないでしょうか?


・つまりどういう事?

性別は男か女か0か1かの二進法的な捉えられ方、扱われ方をされがちですが、実際は身体的、心理的、精神的性別のそれぞれに、もっと揺らぎや幅のあるモノなのではないか、という事を言いたいわけです。男か女かの二択はシンプルですが、たった一つの名詞尺度で70億人もいる人間を二分出来るという考え方は、冷静に考えるとかなり無謀なモノだと思いませんか?一部の方がマイノリティなのではなく、本来はもっと多様な概念である、と考えた方が自然なのではないかなと思います。


・障害や社会的支援という考え方について

「日常生活や社会生活、人間関係を営む上で、自身が抱える身体的、心理的、精神的な状態が、それらに支障をきたすような場合」

あらゆるハンディや疾病、障害に関して、このような場合が社会的支援の対象となる事は、概ね了解頂けるのではないかと思います。性転換手術やホルモン療法など、保険適応が必要になる支援もあるでしょう。ただ、一方で際限なく特化した支援が出来るかというと、それは現実的ではないと思います。


例えば、先日ニュースになっていた事として、

LGBTを抱える方が、外見上の性別の異なる公共浴場施設を利用出来るか」

という話題がありました。多くの方が賛成しない旨を表明していましたし、仮に、「外見上の性別が異なる場合であっても、公共浴場を利用できるものとする」というような法律が可決される可能性はまず無いと言っていいと思います。極端な例を出しましたが、何でもかんでも個別に支援出来るわけではない事が御理解頂けたかと思います。(試みとして悪いと言っているわけではないです。もし、そういった需要に合わせて商売する人がいても自分は良いと思います)


一方で、「公共施設に多目的トイレを多く設置する」という場合はどうでしょうか?小さなお子さん連れの家族や、女子トイレにしか赤ちゃんベットがない事に困っていたお父さん、身体の不自由な方や怪我をしている方、お年寄りなど、予算に関して問答はあるでしょうが、この恩恵に預かれる人は多く、方針そのものに反対する人はそんなにいないと思います。最近は、社会的弱者の権利や支援の拡充といった方向性の話をよく耳にして、めっきり聞かなくなってしまいましたが、バリアフリーの方向性を考える方が随分と現実的なのではないでしょうか?性別が前述の通り多様な概念であるなら、そういった社会的枠組みや雰囲気の方が、恩恵に預かれる方は多くなると考えます。


以上