プレアデス手芸部員が何か書くよ

基本的には、ツイッターに自分が上げたネタのまとめ(http://twitter.com/cs_ker)。中の人は『放課後のプレアデス』推しだが、これ関連の記事は稀。ちなみに、「プレアデス手芸部」とは、アニメ『放課後のプレアデス』をモチーフにして、編み物や刺繍等のハンドメイドでなんやかんや作ろうって活動です。twitterでの検索タグは、 #プレアデス手芸部 よりどうぞ。

箱庭の並行世界への逃避行『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』解釈と考察、感想

まず前提として、自分はこの映画、完全に初見というわけではなく、10年以上前になりますが、原作ドラマの映画版を見てます。なので、ややうろ覚えではありましたが、物語の大筋の内容は知っている状態での鑑賞です。したがって自分は、余計な事を考えながら観る余裕があったんじゃないかと思います。

 

・あらすじ

夏休みの登校日、プール掃除当番だった典道と祐介は、密かに想いを寄せるクラスメートのなずなと一緒に、50m競泳で勝負をする事になる。「私が勝ったら何でもいう事聞くこと」そんな条件を出したなずな。なずなは勝負に勝った祐介を花火大会に誘うが、彼は約束をすっぽかしてしまう。一方、そんななずなと鉢合わせた典道は、彼女が母親に無理矢理連れ戻される姿を目撃するが、これを制止する事が出来ず、祐介に怒りをぶつける。

「もし、あの時俺が勝負に勝っていたら…」

典道がなずなの残したガラス玉に願いを掛けた時、世界の情景が巻き戻っていく…。

 

・原作ドラマとの差異について
所々描写に差異はありますが、原作の雰囲気を結構忠実に再現しているのではないかと思います。キャラデザについて、ガハラさんみたいって巷では言われてますが、ここで重要なのは二人の身長差です。原作から分かりやすいくらい狙ってる設定なんですけど、女の子の方が成熟が早くて背が高いんですよね。これが重要であって、顔立ちとかは本作の本質にとっては二の次です。また、原作のなずなの雰囲気について、自分はある種のポルノビデオのような演出がされているのではないかと思ってます。小学生が男女二人っきりで夜の学校のプールに忍び込んでスク水で泳ぐ、この字面からしてちょっとヤバい雰囲気がありますが、実際、健全な映像を撮ろうという意図は個人的には感じられなかったです。現在ではそんな企画は通らないんじゃないかと思います。そして、未成熟で無防備であるが故の色気みたいなモノは、アニメでも典道というフィルターを通して表現されていたと思います。ただ、アニメの方が生々しさが無いので、ある意味でマイルドな表現になってる気がします。そして、主演二人の演技については、棒読みでも何でもなかったと思います。キャラデザと声質は一致してましたし、舌ったらずな幼さも、辿々しい幼さも、どっちもキャラクターに合致してました。抑揚が変だったり、演技に感情が乗ってなければ棒読みですが、別にそんな印象は受けませんでした。あと、男子四バカが想い人を叫ぶシーン、原作だと眼鏡君は、「セーラームーン」って叫ぶんですけど、ここは変えて欲しくなかったかな?

 

・本作はタイムリープを題材にしているのか

本作のキャッチコピーは「繰り返される夏の日、何度でも君に恋をする」となっており、いかにも、『時をかける少女』で描かれたようなタイムリープを連想させます。しかし、劇中の描写はそうではありません。上記では、世界の情景が巻き戻ると表現しましたが、実際には二人は同じ世界を繰り返していたわけではなく、現実とは物理法則が異なる世界を過ごしています。それは、劇中で描かれた花火の描写から明らかです。本来、花火は爆発地点から同心円状に広がる、つまり球体になるモノですが、やり直した世界で横から見た花火は円状に広がっていました。典道はこの世界は間違っていると言い、もしも玉を使って再び選択をやり直します。同時に、典道にとってなずなと一緒に居られない世界とは、物理法則が歪んでいる位には有り得ない世界である、というメタファとしての意味合いもあると思います。いずれにせよ、劇中の描写はタイムリープではなく、並行世界への二人のささやかな逃避行です。

 

・もしも玉とは

典道が願いを掛けて投げる事で、選択をやり直す事が出来るモノ。なずなが偶然海で拾ったそのガラス玉は、回想からなずなの亡くなった父親の所有物であったことが示唆されていますが、誰が何の為に作ったのか等、詳細は一切明かされません。唯一、これに言及したのは、酔い潰れたマダオこと花火師のおっちゃんです。彼は、これを花火玉だと言って空に打ち上げますが、これはそのままの意味で受け取っても良いのではないかと思います。もしも玉が打ち上げられ砕け散るまで、二人は、それがどのような色形になるか分からない世界で逃避行を続けていました。クライマックスで二人が訪れた世界は、ドーム状のガラスに覆われた世界であり、もしも玉が砕け散るのと同時に世界を覆うドームもまた砕け散っていきます。自分はこの世界を、もしも玉の中にある箱庭だと解釈しました。箱庭の世界で何かを得て、現実の世界に帰っていく…、プレイセラピーみたいですね。

 

・ラストシーンについて

さて、子供にとっての引っ越しとは、これまでの関係性が崩壊する一大事です。大事な人に一生会えないんじゃないか、そんな予感すら抱くかもしれません。簡単には会いに行けないし、連絡だって取れない。劇中には携帯電話の描写だって無かったですしね。そういった危機的状況に後押しされ、二人は逃避行に出るわけですが、その果てで、砕け散ったもしも玉の中から、あるポートレートを見付けます。典道がなずなの手を握るこのカットは、これまでの思い出にはないモノであり、二人が現実の世界で手に取ることができる"もしも"の可能性です。この場面こそが描かれなかったラストカットだと思います。東京デートのポートレートだって色々あったわけですが、これを選んでしまうと想像の余地が消えてしまうんです。先生が点呼を取る中、教室に居ない典道というラストシーン。学校をサボって新学期の初日に彼女の出発を見送ったのか、はたまた、こらはもう少し先の未来で、こっそり遊びに来た彼女を出迎えに行ったのか、実際にどうであったかは観客に委ねられていますが、想像すればするほど甘酸っぱいラストです。

 

・総括

最後に、自分が考えた物語全体の解釈を書きます。なずなにとって引っ越しとは、大事な人と引き離される一大事であり、典道にとってもそれは同様で、それを回避する為に彼は奮闘しました。しかし、それはどこまで行っても一時的なモノであり、並行世界への逃避に過ぎなかったと思います。上記ではその並行世界を箱庭と称しました。やや端折った解説をすると、今作において二人は、その箱庭の世界の中に、自分達にとってこうであったら良いな、という景色を作ることを模索したのだと思います。その試みは途中まで、もしもあの時ああしていたら、という過去に向けた感情でした。しかし、もしも玉が砕けてしまった時、二人は未来のことを想像します。東京まで行って、プリクラを撮って、水族館へ行って、遊園地へ行って…、そしてその中に、自分がラストカットだと予想した直近の未来を想像出来たのだと思います。過去に向けていた"もしもああだったら"という感情が、未来に向けた"もしもああなれたら"という感情に昇華した。もしも玉が砕けた時、心象が過去から未来へ、世界が並行から現実へ、それぞれ転換しています。もし、この解釈が許容されるのであれば、やはり、ラストカットはああして想像に委ねる形で良いのではないかと思います。