六連星手芸部員が何か書くよ

基本的には、ツイッターに自分が上げたネタのまとめ、アニメや漫画の感想、考察、レビュー、再現料理など。 本音を言えばあみぐるまーです。制作したヒトガタあみぐるみについて、使用毛糸や何を考えて編んだか等を書いています。

『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』考察のレヴュー 『スタァライト』とは?

この記事を読んでいる方にはまずいないと思いますが、もし未視聴の方がいらっしゃいましたら、YouTubeで1話が常時フルHD画質で無料配信されていますので、まずは是非ご鑑賞下さい。

 

少女☆歌劇 レヴュースタァライト』素晴らしい作品でしたね。昨今、原作枯渇による過去作のリメイクや続編を扱う作品が増えている中、平成最後の年にこんなにエネルギーに溢れたオリジナルアニメに出会えた事、本当に嬉しく思います。

さて、全話鑑賞された方ならわかると思いますが、本作のシナリオはキャラクター同士のやりとりや関係性、台詞回し、日常パートとレヴューのリンク、そして、演技のディレクションにおいてまで膨大な伏線が散りばめられており、とてもではないですが全てを考察してここに記す事は出来ません。そこで本稿では、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において描かれた様々な「スタァライト」についての考察を試みます。


・キリンのレヴューとは何だったのか?

本作における最大の謎「キリンのレヴュー」ですが、「レヴューを勝ち抜いた舞台少女はトップスタァになり、どんな舞台を演じる事も出来る権利を得る」という報酬、「レヴューに参加したトップスタァ以外の舞台少女はきらめきを奪われる」という代償、そして、「予想もつかない舞台少女のきらめきを観たかった」というキリンの目的、それらが説明された一方で、その実態が何であるかについては、ついに明かされる事はありませんでした。

当初は『少女革命ウテナ』の薔薇の花嫁を奪い合う決闘(デュエル)と同様のものではないかとも言われていましたが、最終的には、似て非なる全く独自のものであったという感想を持たれた方が多いと思います。レヴュー1日目を舞台席で見ていた華恋が最初に言っていたように、舞台少女に課せられたレヴューとは、劇中劇『スタァライト』をなぞらえたものであり、扱われた課題も女神たちが背負っていた罪と全く同じでした。また、その悲劇の結末までもが酷似しており、これは『スタァライト』を模したレヴューというより、最初から『スタァライト』そのものを演じる事を課せられていたと考えた方が自然であると思います。

つまり、キリンのレヴューとは、劇中劇『スタァライト』と原典を同じくして、その解釈を変え、形を変え、神話の時代から現代にまで継承された『星祭りの夜の星摘み』そのものなのではないかなと思われます。


・華恋とひかりの人生としてのスタァライト

幼少期に出会った二人の少女は、同じ舞台の上(星祭りの夜)で再会する事を約束して別れます。ひかり(クレール)はその約束の前に星を摘もうとしてきらめき(記憶)を失い、華恋(フローラ)は約束を胸にそんな彼女と再開を果たします。二人の少女は舞台少女(罪を背負った女神)と戦い塔の頂にあるトップスタァ(星)を目指し、ついに二人で星の元へとたどり着きます。しかし、トップスタァになる事が出来る(星の願いを叶えられる)のは一人だけ。華恋(フローラ)は塔から落ち、星罪を負ったひかり(クレール)は塔の中へと幽閉されてしまいます。


上記が本作の11話までのあらすじとなりますが、舞台『スタァライト』の原典(※)シナリオそのままですよね。何故、二人の人生がここまで『スタァライト』に酷似しているのか。それは、キリンが最終話で私たちに語り掛けたように、この物語が私たち観客が観ている舞台であり、同時に、これは当初から明かされていた通りの事なのですが、私たちが観続けてきた作品のタイトルは何だったでしょうか。二人の人生が『スタァライト』に酷似しているのは、やはり、キリンのレヴュー同様に、その物語の原典が『スタァライト』だった為ではないでしょうか。


・様々な『スタァライト』の物語

さて、劇中でひかりを失った華恋は、ひかりが英国から持ち帰った『スタァライト』の原典(※)本を読み解き、自分が演じた第99回聖翔祭の『スタァライト』が本の内容と異なっている事に気付きます。少なくとも本作の劇中で描かれた『スタァライト』は…


・華恋とひかりの思い出のスタァライト

・第99回聖翔祭のスタァライト

・レヴューとしてのスタァライト

・ばななの想うスタァライト

・華恋の読み解いた原典(※)のスタァライト

・第100回聖翔祭のスタァライト

(※実際には原典ではなく、様々な解釈の一つかもしれません。『スタァライト』の原典を最古まで辿っていく事が出来るとしたら、キリンのレヴューの考察に書いたように、神話の時代の女神たちの物語に行き着くのではないかなと思っています。)


と、このように、劇中で言及された通り解釈の違いによるシナリオの異なる様々な種類があります。そして、華恋とひかりの人生もまた『スタァライト』であるという考察で触れた通り、物語の解釈の違いによる差異はこの作品そのものにも及んでおり、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という作品もまた『スタァライト』の物語の一つであり、その物語の劇中劇もまた『スタァライト』である、という入れ子状の物語を形作っているのだと考えられます。何故、二人の少女の物語と劇中劇、キリンのレヴューの全てが酷似しているのか、それは、それら全てが原典が同じくする『スタァライト』だった為ではないでしょうか?

本作の9話においてひかりが華恋に語った(あるいは、ばななが純那に語った)『スタァライト』の物語は典型的な悲劇であり、「果たしてこれが胸を焦がす程の物語なのか?」などと思ったりもしましたが、本作を最後まで鑑賞した今、『スタァライト』の物語は「胸を焦がす程の物語だった」とそう思います。

そもそも『フリクリ』ってなんだ!?『フリクリ オルタナ』感想

『ナニクリ』

2000年にガイナックスによって発表された6話構成のOVA作品であり、wiki等観て頂ければ分かると思いますが、錚々たる制作陣によって描かれたアニメーションです(原作権移譲の件等々はここでは触れません)。そして、『フリクリ オルタナ』に関しても、劇場で先行上映されているだけであって、旧作と同様に6話構成のOVAとなっています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AA


『ハナカラ』

そもそも『フリクリ』を構成する要素とは何でしょう?私見でザックリ羅列すると…。


・「the pillows」のアニメーションミュージックPV

・アニメの枠に収まらない破天荒な実験的表現

・ギャグや下ネタによって説明された、あるいは覆い隠されたアクの強いSF

・ハイクオリティなアクション作画

・少年のオデコから出現するロボ

・ナオ太とマミ美の退廃的おねショタ

・あるいは、ナオ太とハル子の形容し難いボーイミーツお姉さん


とまあ、個人的にはこんな感じなのではないかなと思います。この中で『フリクリ オルタナ』に最も欠けていたもの。それは「思春期の少年」ではないでしょうか?この要素が欠ける事によって、旧作の要素(と、私が思っている事)の半分が失われてしまいます。「一体いつになったら、カナブンのおデコからテレビ君が出現して戦うんだ?」とヤキモキした方も多いでしょう。これは旧作のノリを期待してしまうとなかなかに厳しい変更要素です。


『スクリプ』

前述の通り、本作は6話構成のOVAです。旧作と違ってその都度エンディングは流れませんが、各話毎にアイキャッチとサブタイが挟まれます。構成としては、1話から「導入」「ヒジリー編」「モッさん編」「カナブン編」「ペッツ編」「終幕」という感じです。これを一気観するわけで、かなり体力を持って行かれますね。…で、持って行かれるんですが、個人的な心象としては各話毎の起承転結というか、喜怒哀楽のテンションの幅が小さく、全体的に単調な印象を受けました。旧作のようにナオ太のロボットが敵を倒してマミ美を助けるといった展開なら、バトルと主人公の感情がシンクロして画的にもっとわかりやすくなったと思うのですが、本作では基本的にバトルはハル子の役目です。彼女の考え方にカナブンが徐々に影響されていくのですが、この「モヤっとしてる」感じが終盤まで続くので、ハル子のバトルが派手でもイマイチノリ切れない印象を受けるのではないかなと思います。


『オシジェケ』

推しというか、一番安心して観ていられたのはヒジリーですね。最初に個別回があった事でその後のキャラが安定していた事もあり、最も観客の目線に近いキャラでもあったと思います。「モッさん編」で空回るカナブンに対し「あー…、なんか良い挿入歌が流れてるけど、これそろそろ爆弾が爆発するなー…」って思いながら観たりして。あと、素に戻った3話以降は、意外と純情な面をところどころで見せていたり。また、旧作では未成年であるマミ美の喫煙シーンがありますが、諸々の表現規制の例に漏れず、本作ではそういう場面はありません。が、私の見間違いでなければ、1話のハム館でたむろしてるシーンで、ペッツが火の付いてない煙草(ポッキーではなかったと思う)を口にしているシーンがあったと思います。この時点で「あ、この娘大人しそうだけど何かあるな?」と気付く人は気付くのではないかなと。


『ユリクリ』

さて、やっぱり何かあった「ペッツ編」なわけですが、幼馴染みの友情から別れを描く中で、ラストが髪留めの交換に留まってしまった事は物足りない印象を受けました。ヒジリーはペンを、モッさんはハンカチをそれぞれペッツと交換していて(ペッツとしては別れの準備だったのでしょう)、特別感が薄れてしまっているんですよね。交換するならカナブンだけにすべきだったと思いますし、あるいは、もっと「ユリクリ」に突き抜けてしまったとしても、『フリクリ』であれば許されたのではないかなと。この作品なら、例えば愛憎を吐露した上でディープキスくらいしても許されそうじゃないですか?この描写に限った話ではないのですが、本作は旧作の表現や雰囲気を踏襲してはいますが、あたまおかしい(褒め言葉)レベルで壊れていた旧作と異なり、なんとなく制作陣が上品さというか、小っ恥ずかしさを捨て切れてない気がしました。話が逸れますが、ぶっちゃけると、旧作の下ネタ要素の大半は、主人公が少年であったから成立していたと思っています。同様の設定をセブンティーンの女子高生に適応しても、同じような感覚を得る事は難しいですし、ソッチに振り切っても下品な感じになりそうです。だからこそ「ユリクリ」に落とし込めれば…と、期待したわけですが。


『スコフシ』

旧作のSF描写に関しては、オペレーターのお姉ちゃんが興奮のあまり鼻血噴きながら色々と解説してくれたりもしましたが、本作ではハル子と神田の会話の中で断片的に語られるに留まっています(どうでもいいけど、入国管理局のオッちゃんの眉毛が海苔じゃないのが物足りなく感じてしまう)。カナブンのおデコの設定やアイロンは、基本的に前作の設定を踏襲しているとは思いますが、自分の見落としていなければ、詳細な時系列や前作との繋がりは不明です。アマラオも出てこないですし、本作では当初アイロンが出現していない為、旧作の前日譚なのか別の宇宙の話なのかは判然としません。本作ラストでハル子が時空の歪みに引き摺り込まれて分裂したかのような描写がありましたが、そういった謎は『フリクリ プログレ』に持ち越しなのかもしれません。

 

フリクリ プログレ』の感想は↓コチラ

つまりは『フリクリ』ってなんだ!?『フリクリ プログレ』感想 - 六連星手芸部員が何か書くよ

素晴らしきボーイミーツお姉さん『ペンギン・ハイウェイ』感想

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学生時代の自主制作作品、『フミコの告白』と『rain town』で文化庁メディア芸術祭で2年連続受賞された石田祐康監督の、そしてスタジオコロリドの初長編作品『ペンギン・ハイウェイ』を観てきました。静動からリアルデフォルメまで、アニメーションの引き出しが物凄く広くて、全編通して全く飽きさせない素晴らしいアニメーションでした。夢パートの超作画とか『フミコの告白』を彷彿とさせるペンギンたちの疾走とか、色々と語りたい場面はありますが、とりわけ言及しておきたいのが「ペンギンサーカスの団長になれますよ」とアオヤマくんがお姉さんに言った次の瞬間、ペンギンたちでサーカス(アニメ演出技法)を描いたシーンですね。どのシーンもアニメで語ってます。もう、アニメが好きなら観てくれって感じです。以下、幾つかのテーマをピックアップして書いていきます。


・なぜ“おっぱい”が強調されるのか

アオヤマくん、いったい劇中で何回「おっぱい」って言ったんだろうって思うと同時に、なんであんなにお姉さんのおっぱいが強調されるんだろうと考えたんですが、お姉さんが歯科医院勤めなのを見て納得しました。お姉さんは歯医者さんではないですが、子供の頃に歯科で診察や治療を受ける時って、担当の方が若い女性の歯科医さんだった時に、こう…ね?そういう事ありませんでしたか?そのイメージからきてるんじゃないかなと思うんですよ。それにしても1日30分おっぱいの事を考えるのを公言するのは、子供の頃の黒歴史になっちゃう気がして後が怖い。そして、気にするの早過ぎなハマモトさんを前にして、大声で「おっぱい!!」って叫んじゃうアオヤマくん(厳密には気にしてるのはそういう事ではないですが)。アオヤマくんはお姉さんに夢中な事を冒頭から言っているので不快感とかはないんですが、他の女の子(というかハマモトさん)の乙女心にも気付いてあげてって感じです。でも、そこが子どもっぽくて良いですね。ある意味、ウチダくん(CV釘宮理恵さん、ここ重要)の方が俗世的な事に関してはアオヤマくんより大人であったと言えます。


・ハマモトさん可愛いよハマモトさん

全国のアオヤマくんがお姉さんに恋し始めて、それで全国のハマモトさんが泣くような事があったらどうしてくれるんだと思いました。半分冗談ですが、半分本気で。逆にリアル小学生は、ハマモトさんのいじらしい可愛さがわからないんじゃないかなぁ…。お姉さんに嫉妬して、感情表現豊かで、一生許さないとか、許せるかわかんないとか、でも、アオヤマくんがデリカシーの無さ全開で「合理的に想いを伝えるべきだよ」とかズカズカ言っていたように、肝心な事は言えなくて。チェスが超強くて相対性理論の本なんかも読んじゃうんですけど、どっちかというとフィールドワークタイプの研究者で、公私共にアクティブな知的なお転婆

ハマモトさんの魅力、わかるか?少年。アオヤマくん、そういうところだぞお前アオヤマくん。


・世界のヘンテコと謎解きについて

劇中で度々、今作の謎は相対性理論や『鏡の国のアリス』に関係あるモノである事が示唆されています。また、アオヤマくんのお父さんが「世界の果てが袋の内側にある」可能性について言及していますが、これがそのまま「海」の答えになっていましたね。ペン太が消えてしまった事とそのシチュエーションそのままをお姉さんで繰り返した事や、アオヤマくんにナスのナポリタンを振る舞いながら自分は口を付けていなかったお姉さんの描写など、謎解きの過程は丁寧に描かれていました。一つ惜しいなと思ったのがお父さんにアドバイスをもらっていたエウレカのシーンで、パズルを頭の中で組み立ててしまっていた点について、小学生なら大きな方眼紙に自由研究みたいに書いて欲しかったなと思います。でも、自分が演出で気になったのはここくらいでした。


・妹が見た夢、そのメタファ

映画を観てる最中は、アオヤマくんの妹(CV久野美咲さん。ここ重要、テストに出ます)が見た夢について、その内容はわかったんですが、このエピソードが挿入される意図までは解釈し切れませんでした(夢とは言及されてませんが多分そう)。一見すると唐突な、しかし、子供であれば誰もが経験するであろうこのエピソード。でも、よくよく考えてみると、妹が見たというお母さんが死んでしまう夢の情景は、おそらく、アオヤマくんが見た夢の情景と同様のモノであったのだろうと思います(夢パート作画:押山清高(!!)、橋爪陽平(新人さんみたいです))。つまり、お姉さんが消えてしまう夢の情景について、ありのままに感情を表出しないアオヤマくんに代わって、妹がその感情を表出して、その気持ちをアオヤマくんに汲み取らせる事で、自分の事としても整理させている…のではないかなと思います。アオヤマくんはこの恐怖に対して、クライマックスで立ち向かいながらお姉さんの元へと向かったわけですね。「泣くな、少年」って、幾らアオヤマくんでも、それは無理というものです。


・ボーイミーツお姉さん

お姉さんは小学生目線の方が魅力的に思えるかもしれません。そして憎いかな、この映画には観る人を子どもの感覚に誘う仕掛けがあるように思います。田んぼの畦道とか裏道の用水路側とか、「あー、無駄に遠回りしてこういうところ通ったなぁ…」って思ったら終わりです。この時、あなたはもう子ども。

で、ここからが肝心な話なのですが、この作品のジャンルは厳密にはおねショタではないと思うのです。この作品のジャンルは、SF、ジュブナイル、そして、ボーイミーツお姉さん。この作品、お姉さんが積極的にアオヤマくんにちょっかい出していくようなシナリオではないんですよね。お姉さんと関わった事で、アオヤマくんが世界のヘンテコに観察や実験などの科学的手法と漢気で立ち向かっていく物語です。


・関連作品

『フミコの告白』

自主制作アニメ 「フミコの告白」 - ニコニコ動画

第14回文化庁メディア芸術祭優秀賞


『rain town』

卒業制作アニメーション 「rain town」 - ニコニコ動画

第15回文化庁メディア芸術祭新人賞

個人的にこうだと便利だなというTwitterの仕様について

さて、私は自分で読み切れる分量以上の情報をTLに流さないよう、フォローをかなり絞っている節がありますが、それでも最近のTwitterは強制表示が情報過多になっていると思います。強制というのがツールとして扱い辛いところで、可能ならば各々の機能がカスタマイズ出来ると不満も解消されると思うのです。思い付く事を羅列すると…


リツイートの複数回表示のオンオフ

・TLのフォロー先の「いいね」表示のオンオフ

・フォロワーのTLへの自分の「いいね」表示のオンオフ

・鍵アカウントのカスタマイズ(リツイートのみ禁止、いいね禁止などのオンオフ)

・センシティブ設定のユーザー毎の個別設定(大抵は倫理観のあるまともな人が石橋を叩く感じで設定しており、そういう方の設定は個別に解除したい。そうでない人はブロックリスト行きである為、一括設定は現状ではあまり機能しない)

・ミュート、ブロック相手のツイートの完全非表示(キーワード検索やトレンドでは普通に表示される)

・アカウントの検索履歴のカスタマイズ(個別に削除出来ない。一部のアプリでは可能らしいが)


下記の以前の記事から引用しますが、現状の仕様に関しては、おそらく、「FF内の関係性において、より広範に趣味嗜好について認知させ、横の繋がりを増やして広告のプロモーションを強化する」というような狙いがあるのでしょう。しかし、コミュニケーションツールとしての扱い辛さが前面に出てユーザーが離れれば本末転倒。上記に挙げた個別設定などは技術的に面倒かもしれませんし、開発サイドの意図は汲みますが、もう少し自由度が欲しいところです。

最近のTwitterの仕様でモヤモヤしてる事 - プレアデス手芸部員が何か書くよ

ファンタジーに対する誤解〜『おおかみこどもの雨と雪』を考察する

・率直に言ってどういう映画なのか

結論から言いますが、ハンディ(障害)を抱えた子どもを育てるお母さんが事故で夫を亡くしてシングルマザーとなり、都心で子どもたちを育てる事に限界を感じて田舎に引っ越す、という内容です。よく、「スーパーお母さんが非現実的」とか「自然礼賛が受け入れられない」とかいった批判を目にしますが、実態はそういう内容ではないです。前述の通り、あの一家は所謂一般家庭ではないですし、田舎に引っ越した理由も明確に描写されています。そして、物語冒頭でおおかみこどもの雪から、この物語が母親の語る「御伽噺」である可能性に言及されています。この作品に対しては「ファンタジーで現実味が無い」という批判も目にしますが、冒頭のナレーションの意味を頭の片隅に置いて視聴される事をお勧めします。


・富山の山中への移住は自然礼賛か

まず、舞台として富山の立山連峰が選ばれた理由の一つは、ここが監督の地元だからですね。

そして、都心から田舎への引っ越しを決めた理由ですが、まず第一に、おおかみこどもの夜鳴きやバタバタと騒いでしまう状態が、近隣住民とのトラブルになった事、そして、おおかみこどもである事を発覚させるわけにはいかず、三歳児検診を受けさせられなかった事が虐待と見做されて児童相談所に通報された事が挙げられます。現実においても、子どもが何らかのハンディを抱えている可能性を確定させる事を躊躇い、親御さんがそういった疑いのあるお子さんに検診や予防接種を受けさせないという事はままある事です。この一連の描写は、こういった観点で言えば非常にリアリティがあったのではないかと思います。田舎に引っ越したのは自然礼賛が理由ではなく、あの物理的に開けた環境が、おおかみこどもたちの生まれ持った特性に合っていた為です。


・雨の生き方とラストシーンについて

人間社会に適応して生きて行く事を決めた雪に対して、狼としての本能が強く働く雨は、学校を離れて母親の勤め先に付き添いヒトの姿で山について学ぶ傍ら、山の長である老いた狐に師事して狼の姿で自然の中を駆け回ります。そして、最終的には母親である花の元を離れて狼として生きる事を選択するわけですが、このラストシーンについて「親として無責任」と評するのは一般的な価値観ではそうなのかもしれません。しかし、これは決して差別的な意味合いではないですが、健常者の親とハンディを抱えた子どもが同じ価値観の中で一緒に生きられるわけではない、という事をメタファとして描いた上で、それでも、そういう生き方を受容して笑顔で送り出す事は出来るよね?という事を伝えたいのだと思うのです。花は雨に対して「あなたに何もしてあげられてない」と涙します。私は決してそんな事はないと思うのですが、これは、それでもという親の愛情と、子どもの事を全ては理解してあげられなかった、という叫びでもあるのではないかなと思います。


おおかみこどもの雨と雪』は、主人公が”おおかみこども“というファンタジーの存在である為に物語として向き合う事が出来ますが、もし、姉弟をリアルに"ハンディを抱える子ども"として設定し、描写してしまった場合、とてもではないですが描写が生々しくて観ていられないシナリオだと思います。したがって、この作品はファンタジーとして描写する事でリアルさを削いでいますが、一方でそれは、作品が抱えるリアリティをそのままの形で物語に盛り込む為の装置であると言えるのではないでしょうか?

『未来のミライ』を解説する

細田作品フォロワーの私も手放しで絶賛したりはしませんが、それでも言い掛かりとしか思えないレビューや感想が目立つ様に思います。家族じゃなきゃダメなのかとかお兄ちゃんやんなきゃいけないのかとか、そういう風に憤慨してる人が多い印象ですが、それはあの家族やくんちゃんの話であって、別に押し付けるような内容ではないですしそれで駄作だって言ってる方は筋違いだと思います。では、実際はどういう作品だったのかいくつかピックアップして解説してみようと思います。

 

・なぜ場面がコロコロと転換するのか

予告編を見る限りでは「くんちゃんが未来のミライちゃんと一緒に冒険を繰り広げ、その結果としてお兄ちゃんとして成長する」というような物語を期待していた方が多いのではないかと思いますが、実際は、現実とファンタジーの世界がコロコロと転換し一大冒険スペクタルは最初から最後まで起こりません。家族アルバムをパラパラとめくって写真にまつわるエピソードをオムニバスに描くような話です。この点について肩透かしを食らった事も本作の評価を下げる要因となっているのではないかと思います。ただ、この描写は4歳児のファンタジーを描く上で間違ったモノだとは思いません(結果として面白い描写になるかは別問題ですが)。今作は、妹が産まれた4歳児のくんちゃんがぐちゃぐちゃになった感情や心のうちをファンタジーの中で処理し心の安定を図っていくモノであり、その為に現実とファンタジーとがコロコロと転換しているのだと思われます。


・きょうだいが産まれた4歳児の行動とは

本作のくんちゃんの行動をざっと列挙すると…


・部屋を散らかす、片付けられない

・未来ちゃんにちょっかいかけて泣かせる

・新幹線のおもちゃで打とうとする

・お気に入りのズボンが無いとお出掛けを嫌がる


など、あまり見ていて気持ちのいいものではありません。ただ、これらの行動は多少は描写が誇張されている面はありますが、きょうだいの産まれた4歳児の行動としては結構リアルで、実際にそういう状況に陥った4歳児は「おにいちゃんでいるのイヤ!!」と言って幼児退行する事はままある事です。お片付けなど出来ていた事が出来なくなったり、おねしょ癖が復活したり、一見すると理不尽とも思えるわがままを言ったり…、劇中のように激しく幼児退行する場合もあれば、ある日お風呂で「おにいちゃんイヤ…」とボソッとこぼす場合もありますが、いずれにせよ、そうして赤ちゃん返りする事で、失われた(と、本人は危機として思っている)愛情を取り戻そうとするわけです。でも、それだけでは上手くいかない為に心の中のファンタジーで現実に対抗して折り合いを付けようとするわけです。本作の描写がファンタジーに振り切れていない為にどう受け取っていいかわからない、という感想も見られましたが、これは実際にその通りで、本作のファンタジーはくんちゃん心のうちのファンタジーという意味合いが強い為に、観客としてはノリ切れない微妙なニュアンスで描かれていると思います。なので、4歳児をきちんと描くという点においてはあの描写で正解だと思います。ただ、エンタメとして認識するには敷居が高いな、というのが率直な感想です。


・どうして両親や祖父母のくんちゃんへの態度がおざなりなのか

怒るのと叱る(諭す)のは違うとよく言ったものですが、お母さんのくんちゃんへの接し方って前者が多かったですよね…。これが何故かというと、劇中で描かれた通りお母さんのお母さん(くんちゃんのおばあちゃん)の接し方がおそらくそのまま影響してしまっています。はっきりとは理由は描かれていませんでしたが、お母さんも弟さんとの事で荒れていてそれで大目玉を食らっていましたよね。これもままある事なのですが、あまり良い状況とは言えないです。

お父さんに関しても、くんちゃんの自転車の練習を見てあげるのと未来ちゃんのお世話とを両立出来ず、くんちゃんを泣かせてしまいましたよね。まあ、両立させる方が無理というものですが。その後に、実際に手を掛けるのではなく声援を送り続けて父子の繋がりを持つ場面は、親子の関係の描写としてなかなか良かったと思います。…が、この時実はくんちゃんの心が後述の曾お祖父ちゃんとのエピソードに感化されていて、お父さんはいい感じになってるんですけど若干チグハグな印象になってしまっているので勿体無い感じがありました。そこで祖父母くらいはくんちゃんに…と思うのですが、おばあちゃんがくんちゃんの代わりにお片付けをしてしまったり、おじいちゃんが未来ちゃんの写真を撮るのに夢中になっていたり、うーん…良くない。でも、ままある事なんですよね。そういう意味でもストレスとして感じた方もいるのではないでしょうか。身につまされるというか。そこで、下記の曾お祖父ちゃんのお話です。


・曾お祖父ちゃんのお話

さて、本作のオムニバスエピソードの中で曾お祖父ちゃんとの邂逅は一際異彩を放っていた、と多くの方が思ったのではないかと思います。エンドクレジットのキャスト欄でも、芸能人のゲスト声優の中でも特にシークレットゲストという感じで、明らかに内外で特別感がありました。曾お祖父ちゃんがまたイケメンなのですが、演技もそれに合致した自然体な感じで凄く良かったと思います。タイトルこそ『未来のミライ』なのですが、これ、『曾お祖父ちゃんとの夏』ってタイトルなんじゃないかってくらい尺が取られてます。個人的には、映画丸々一本、過去にタイムスリップしたくんちゃんと曾お祖父ちゃんとの一夏の冒険を描いた方がよほどエンタメになる題材なのでは思いました。戦争で負傷した話、曾お婆ちゃんを射止めた話、くんちゃんとの乗馬、バイクでのツーリング、自転車に乗れるきっかけ…、エピソードとしても盛りだくさんです。曾お祖母ちゃんがまた可愛いんだ…。そして何より、かっこいいメカでくんちゃん(と、観客である私)の男の子心を刺激し、高い抱擁力でくんちゃんの甘えたい欲求を満たし、それでいてちゃんと自立も促してくれる大きな存在です。やはり、これだけを主軸にした方が良かったんじゃ…。でも、そうすると兄妹間の葛藤というテーマからはズレてしまうんですよね…、難しい問題です。次はこういうお話を描いてくれないかな…。


・総括

予告のあり方にも問題があったと思いますが、観客が期待したモノと実際に上映された内容とが不一致であった感は否めません。それでも、4歳児をきちんと描くという試みそのものは上手く映像に落とし込まれていたのではないかと思います。ただ、それがエンタメとして成功しているかは難しいところで、本作のエンタメ要素は曾お祖父ちゃんが全て掻っ攫っていってしまいました。リアルに描くというのはなんとも難しい問題です。