六連星手芸部員が何か書くよ

基本的には、ツイッターに自分が上げたネタのまとめ、アニメや漫画の感想、考察、レビュー、再現料理など。 本音を言えばあみぐるまーです。制作したヒトガタあみぐるみについて、使用毛糸や何を考えて編んだか等を書いています。

『君の名は。』気になった演出箇条書き

君の名は。』については、SF考証やシナリオの解釈等、小難しい話ばかり書いていたので、ちょっと息抜きに、細々とした気になった演出について書いていく。ネタバレOKという方は下記へスクロール。




















・瀧の手の平に書かれた「みつは」
終盤、三葉が瀧の手の平に名前を書く前にカタワレ時は終わり、それは叶わなかった。しかし、最初の入れ替わりの時、実は三葉は瀧の手の平に名前を書いている。初見だと何とも思わないシーンだが、2週目だと…。

・笑いが起こるシーン
生写真付き巫女の口噛み酒、「あいつに悪いか…」からのいつもの、おっぱい揉んで感涙する瀧とドン引きする四葉、共通してるのはこの辺。

ブラックベリー花言葉
お婆ちゃんと四葉と一緒に御神体に行く途中、お茶を飲むシーンの画面右端に映り込んでるブラックベリー(と思われる植物)。花言葉は「人を思いやる心、あなたと共に、素朴の愛、孤独、嫉妬」。それぞれ三葉の心情とよくリンクしてると思う。この時の三葉は、ちょうど奥寺先輩とデートの約束を取り付けているハズだ。植物にあまり詳しくないので、他にどんなモノが描かれているか分からないが、アニメの画 面に映り込むという事は、何らかの意味を持たせての事だろうと思う。

・デートコースの選定
奥寺先輩の反応から、昼食を食べたカフェを選んだのは彼女ではない事がわかる。また、瀧でもないようだ。デートコースの選定が三葉だとすれば、郷愁写真展を選んだのもそうだという事になる。

・繰り返される月のカット
瀧が三葉に電話をかけた時に電線に裂かれている満月、飛騨へ向かう瀧の三日月のTシャツ、御神体で三葉に再会した時、瀧が手を伸ばした薄い三日月。これらは2人の距離のメタファか。

・『なんでもないや』歌の入りでの暗転
前奏時、登場人物のその後が数秒ずつ挿入され、四葉のカットの直後に画面が一瞬暗転し、瀧と三葉のシーンに切り替わる。ここでスタッフロールか…と思わせてからのエピローグ。狙ってやってるとしか思えない。

・瀧の涙
2人がカタワレ時の御神体で再会した時、ポロポロと涙を流して喜んだ三葉に対し、柔らかく微笑んで見せた瀧。しかし、御神体に辿り着いた時、再び入れ替わった時、3年前に三葉に出会った事を回想した時、瀧は結構な頻度で彼女を想って泣いている。そんな瀧が三葉の前で初めて涙を見せたのは…。

※何か思い出したり思いついたりしたら順次追加していく。

超ひも理論と神隠し、隠り世の宇宙が紡ぐ交換日記『君の名は。』考察と感想 修正版

大筋の内容は前回の記事と変わりませんが、あの記事を書いた段階では、まだ映画を一回観ただけで、小説版すら未読という状態だった為、記憶違いや時系列に関する勘違いがありました。それを修正して但書を付けていく作業を続けても、だんだん読み辛くなっていきますし、またあれから考える事もあった為、別記事として残します。例によってネタバレ全開なので、未視聴の方は注意して下さい。今回は『another side』のネタバレも含みます。なお、前回の記事はコチラです。↓
ker-cs.hatenablog.com




















まず、自分が観た上でのシナリオの流れと解釈はこうです
・三葉の時間で瀧との入れ替わり生活が始まる
・三葉、瀧と奥寺先輩のデートを取り持ち、涙を流す
・三葉、瀧に会いに上京し、3年前の瀧に組紐の髪留めを渡す
・三葉、彗星が落ち、隠り世で瀧を待つ
・瀧、彗星が落ちる景色を観る
・瀧の時間で三葉との入れ替わり生活が始まる
・瀧、奥寺先輩とのデートで訪れた写真展で、三葉の住む場所が飛騨である事を知る
・2人の入れ替わり生活が唐突に終わる
・瀧、三葉に会いに飛騨へ向かい、彼女が、もういない事を知る
・瀧、御神体で三葉の口噛み酒を飲み、隠り世へ入る
・再び入れ替わり、瀧、彗星の落下から住民を避難させる為に奔走する
・瀧と三葉が黄昏時の隠り世で出会い、瀧が三葉に髪留めを返す
・三葉が奔走し、その後、彗星が落ちる
・2人は隠り世から現世に戻り、お互いの名前と入れ替わりの記憶を失う
・瀧の時間で5年後、2人は再会する

上記について補足していきます。まず、下のカットから分かるように、星が落ちて三葉がいなくなった世界でも、彼女は髪を切り、髪留めを付けていません。劇中で彼女の友人が言っていたように、瀧と奥寺先輩のデートを後押しした事で失恋し、それで髪を切ったのでしょうか?そして、瀧に会うことは出来なかった為に、彗星が落ちて死んでしまったのでしょうか?これは違うと思います。なぜなら三葉がいなくなった世界でも、瀧は彼女の髪留めを持っているからです。三葉は、彼女がいなくなった世界でも、瀧に会って髪留めを渡しているハズです。
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あらすじの中で自分は、三葉が隠り世で瀧を待っていた、と書きました。これは、この作品の根幹を支えるSF理論が、いわゆるタイムパラドックスとは少々異なると考えた為です。その説明は、劇中で一葉おばあちゃんから語られた事が、そのまま答えになっていると思います。まず、御神体へ口噛み酒を御供えする道中、おばあちゃんは、「よりあつまって形を作り 、捻れて絡まって 、時には戻って 、途切れ 、またつながり 。それが組紐 。それが時間 。それが 、ムスビ 」と時間の流れの様を組紐に例えて語っています。これはSF作品においてパラレルワールドの説明にも用いられる、"超弦理論(超ひも理論)"を指していると考えられます。
超弦理論とはいったいどんなものなのか、ざっくり言えば、素粒子を一本のひもとして考え、高次の次元をそのひもの中に巻き込まれたものとして考える、というモノです。また、オープニングで歌われた『夢灯籠』の歌詞の一節「5次元にからかわれて」の5次元とは、超弦理論で取り扱われる、空間を指す3次元に時間を加えた4次元、それらの高次元にあたる"別の宇宙"を指していると思われます。それが、SF作品においては、パラレルワールドとして扱われたりするわけです。超弦理論の予想によれば、高次の宇宙を支配する法則は、この宇宙の法則とは全く異なるらしいのですが、それは逆に、後述で説明する世界の特徴と一致していると言えます。※超弦理論に関しては、この作品に関連するところだけピックアップして記述しています。全貌が気になる方は、是非、調べてみて下さい。
さて、次におばあちゃんは、隠り世について話をしました。これは、日本神話にも表れる"現世と幽世"の話そのままです。幽世には現世とは違う時間が流れているといいます。どちらの話も劇中で同一人物から語られた事から、一貫性が示唆されていると思います。そして、これらの話を統合して考えると、本作においては、この隠り世こそが高次の別の宇宙に当たるのではないでしょうか?ところで、カクリヨの表記について、"隠り世"と"幽世"と定まっていませんが、これはミスというわけではなく、小説版を読むまでは、自分は"幽世"の方の表記だと思っていました。文字通り、死者の世界としての意味合いが強い表記です。しかし、小説版を読み、劇中の表記が"隠り世"であると知った事で、その意味合いはやはり、死者の世界とは異なるモノだという認識が強まりました。また、口噛み酒を飲んだ瀧が見たイメージの中で、彗星が龍の形を取る場面があります。『another side』によると、宮水神社が本来祀っていた神とは、この彗星であり龍でした。この解釈が劇中においても適用されているのであれば、彗星によって糸守にもたらされた災害とは、すなわち、神によって人々が隠り世に連れていかれた事、と置き換えることが出来るのではないでしょうか。つまり、神である彗星による神隠しです。劇中で三葉は、瀧との入れ替わりによって3年後の糸守の有様を目の当たりにした時、彗星が落ちた時の事を回想しています。つまり、あれは既に起こった事なんです。劇中で描かれた三葉の暮らす世界とは、現実の3年前の世界ではなく、隠り世の世界だったのではないでしょうか?小説版第六章のタイトルは「再演」となっています。糸守に彗星が落ちるのは、1200年前から数えて2度目ではなく、実は、3度目だったのではないでしょうか?

タイムパラドックスと少々異なると言った理由ですが、瀧が最後に御神体の側で目を覚ました時、彼が三葉の名前はおろか、彼女との事を覚えていなかったからです。一見すると、三葉と瀧の入れ替わりをキッカケとして、彼女が瀧に会いに行き縁が結ばれる、というタイムパラドックスが原因のように思えます。しかし、三葉の運命が変わったのは、彗星が落ちた後の話であり、その前の入れ替わりの出来事の記憶は消えないハズです。この事から自分は、2人が記憶を失っているのは、時間を隔てて縁が結ばれたからではなく、現世と隠り世を隔てて縁が結ばれたからだと考えました。原因はタイムパラドックスではなく、隠り世での事を現世に持って来られなかった為ではないでしょうか?実際、劇中でもおばあちゃんが、「此岸に戻るには」「あんたたちの一等大切なもんを引き換えにせにゃいかんよ 」 と語っています。これは、あの時の2人にとって、互いに結んだ関係性以外に有り得ません。
黄昏時では隠り世の人に出会えるともいいます。御神体の側で瀧と三葉が出会った時、背景の隕石湖は一つだけでした。つまり、瀧が三葉の世界に足を踏み入れています。瀧がこの時出会ったのは、時の流れが異なる隠り世で、彼を待ち続けていた三葉だったのではないでしょうか?

自分は、以前の記事で2人の関係について、"交換日記から始まる遠距離恋愛"と比喩しました。この比喩の意味するところは、言った自分でも最初はよく分かっていませんでした。入れ替わり生活を通して互いの事を深く知り、その時の出来事を日記に付けていた事を指して、文通での交換日記を通して互いに惹かれていく様のようだ、と、そう表現していました。しかし、劇中で瀧が三葉に出会った時、「凄く遠いところにいた」と言っていた意味を考えた時、自分が遠距離恋愛と表現した意味がわかりました。これは"新宿と飛騨"という物理的な距離や"3年"という時間的な距離ではなく、それ以上に、"現世と隠り世"という霊的な距離を指していたのではないでしょうか?本当にどうしようもなく遠い距離です。ただし、上記で考察した通り、この作品において隠り世とは、死者の世界ではなく、神話の中に表れる"神に隠された世界"であり、同時に、超弦理論が示す"高次の宇宙"であると思われます。それは、黄昏時という言葉が示す通り、昼でも夜でもない曖昧な状態の時間であり、"シュレディンガーの猫"のような、可能性の定まっていない重なり合った世界なのではないでしょうか?
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これを踏まえると、三葉が瀧と奥寺先輩のデートを後押しした時、「今日のデート、私が行くハズだったのにな…」と言って涙する意味の重みが大きく変わってきます。初見だと、"本当は、私が瀧くんとデートしたかったのにな…"と捉えられる場面ですが、実際は、もっとどうしようもない感覚に対する涙であったように思います。そして、上京した三葉が電車に乗る瀧を見つけ、赤面して俯きながら「瀧くん…。瀧くん…。」と繰り返し呟く場面。本当に愛おしそうに、何回も名前を呟く場面。この時、彼女にあったのは、この広い東京で彼に出会えるわけがなかったのに、という思いではなく、同じように、もっとどうしようもない感覚だったのかもしれません。ただ、あの時2人が出会えた理由も、その感覚と同じ理由なのではないかと思います。あの時は、ひょっとすると黄昏時だったのではないでしょうか?
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これらの2つの場面が、自分には物凄く心に刺さったように思えました。その理由をこうして考えてみた次第です。そうして、"三葉は瀧を隠り世でずっと待ち続けていた"という考えに行き着いた時に、どうしてここまで、自分がこの作品に惹かれるのかがわかった気がしました。ただし、色々と理屈を組み立てましたが、三葉の世界のどこまでが現実で、どこからが隠り世での事なのか、言っている自分でも、正直、境界はよくわかりません。ただ、過去に戻って死者の運命を変えると考えるより、隠り世にまで赴いて神隠しに逢った大切な人を助けると考えた方が、劇中の描写や現実にある理論に則しているように思えたし、日本特有のファンタジーとして綺麗なんじゃないか、そう思ったに過ぎません。理屈抜きで運命の赤い糸の一言で全てを片付けても、それでも良いんじゃないかと思います。

最後に、三葉は瀧に恋したから、彗星が落ちるその前に彼に会いに行って、それで縁が結ばれたんです。そうして結ばれた縁から、彗星が落ちるその前に、彼女に恋した瀧が三葉に会いに来たんです。色々と理屈をこね回しましたが、それが何よりも良かったんです。すべてがこの一点に収束するよう、リアリティではなく、説得力を持っていた事が良かったんです。これはまさしく、新海誠監督が描いてきた"セカイ系"の系譜にある作品だと思います。

追記:映画の公開日である8月26日は、超弦理論を統合したM理論の提唱者"Edward Witten(エドワード・ウィッテン)"の誕生日だそうです。不思議な縁ですね。SFというジャンルがもっと面白く、間口の広いものでありますように。

アルコール依存症で死ぬという事

自分は一切お酒を飲みません。冠婚葬祭いずれの場であってもです。

別にコレを他人に強要なんてしません。自分が見た事を反面教師にして、自分に対して強迫的に課しているだけです。ただ、そういう話もあるんだ、くらいで思ってもらえればそれで良いです。

長ったらしいあらすじは書きません。単刀直入に言って、実家は父親のアルコール依存症で家庭崩壊状態でした。

手術と入退院を繰り返し、その度に夫婦揃って「ああ良かった治ったよ」なんて言いながら、甲斐甲斐しく晩酌して酒を呑ませ、また再発を繰り返すその様は、まるでグリム童話の中で食事に少しずつ毒を盛る魔女のように見えました。あるいは、現実で見られるそういった光景やその時に誰かが味わった気分が、物語に登場する魔女のモチーフなのかもしれません。いずれにせよ、自分には到底理解の及ばない狂気に満ちた光景と価値観でした。


いよいよ病状が進行し癌で胃を全摘出した事で、アルコールを摂取する事が不可能になりました。余命は短いながらようやく真っ当な余生が訪れたんだなと、その時はそう思いました。以前と違って素面だし、胃は無くなったけれど食事は前よりも取っていたくらいでした。
ただ、そんな状態も長くは続かず外科手術不可能な癌が再発しました。それだけなら今日明日中にどうにかなる問題じゃない、そう高を括っていましたが、程なくして危篤だと聞いた時はもう何が起きたのかは察しは付いていました。抗癌剤治療の副作用で完全な寝た切り状態となり、癌を抱えた状態であったとしても真っ当に生きられるハズだった余生は全て喪われてしまいました。抗癌剤の投与にあたって副作用やリスクの説明は多少はあったらしいのですが、本人達は内容は理解していなかったとの事でした。この時自分は、晩酌が甲斐甲斐しく続けられていたあの時から実際は何も変わっていなかったんだと悟りました。
生命に対する価値観や考え方に、ここまで大きな開きがあるとは思っていませんでした。そんな大事な事をサッサと決めてしまえる家族も医者も、自分には全てが狂っているように見えました。残された寿命がどれだけあるのか、いや、もはや寿命があるだけに過ぎないわけですが、幸福を対価にして狂気に生きる事に自分は何の共感も持てないんです。(ここでいう幸福も狂気も、あくまで私の価値観に過ぎないわけですが)


サン=テグジュペリの『星の王子さま』に登場する酔っ払いは、「忘れるために飲んでいる」「恥じている事を忘れるために飲んでいる」「飲む事を恥じている!!」と言って、それきり黙ってしまいました。実際はどうなんでしょうか?狂気に身を置いている事を忘れる為に飲むんでしょうか?最初の狂気は、いったい何だったんでしょうか?

アニメ『甘々と稲妻』再現料理集

アニメ『甘々と稲妻』劇中でメインで扱われた料理、全品再現です。

レシピは原作に載っているので、是非買いましょう!!

甘々と稲妻 (全12巻) Kindle版

3巻までKindle Unlimited(初回30日間無料体験)対象です。

 

2話「豚汁」

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3話「煮込みハンバーグ」

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4話「コロコログラタン」

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5話「ドーナツ(プレーン、チョコレート、ハニーシュガー)」

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6話「焼き餃子、水餃子、手羽餃子」

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7話「五平餅」

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8話「イカと里芋の煮物」

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9話「うちのおうちカレー」

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10話「アジッ!!」

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 11話「さつまいもクレープ」

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 12話「あいじょーたっぷりお好み焼き」

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では、2期が放送されたらその時にまた。

超弦理論と幽世の宇宙が紡ぐ交換日記 『君の名は。』考察と感想

君の名は。』について、色々と自分の中で煮詰まってきた結果、昨日の感想記事があまりに薄っぺらく、作品の表面をなぞっただけの評論に思えてきたので、書き直します。昨日の記事はネタバレと題した割には(内容が薄かった為結果的に)シナリオについてボカして書いていましたが、今回は全部書きます。それでも大丈夫という方は下記へ。
※新たな考察を加えて加筆修正しました↓
ker-cs.hatenablog.com





















まず、自分が観た上でのシナリオの流れと解釈はこうです
・三葉の時間で瀧との入れ替わり生活が始まる
・三葉、瀧と奥寺先輩のデートを取り持ち、涙を流す
・三葉、瀧に会いに上京し、3年前の瀧に組紐の髪留めを渡す
・三葉、星が落ち、幽世で瀧を待つ
・瀧、星が落ちる景色を観る
・瀧の時間で三葉との入れ替わり生活が始まる
・瀧、奥寺先輩とのデートで訪れた写真展で、三葉の住む場所が飛騨である事を知る
・2人の入れ替わり生活が唐突に終わる
・瀧、三葉に会いに飛騨へ向かい、彼女が、もういない事を知る
・瀧、御神体で三葉の口噛み酒を飲み、幽世へ入る
・再び入れ替わり、瀧、彗星の落下から住民を避難させる為に奔走する
・瀧と三葉が黄昏時の幽世で出会い、瀧が三葉に髪留めを返す
・三葉が奔走し、その後、星が落ちる
・2人は幽世から現世に戻り、お互いの名前と入れ替わりの記憶を失う
・瀧の時間で5年後、2人は再会する

上記について補足していきます。劇中の描写では、三葉が瀧に会いに行ったキッカケは、瀧との入れ替わりにより星が落ちる事を知った為でした。訂正:瀧との入れ替わりによって、三葉は糸守が彗星によって消えた事を知りましたが、瀧に会いに行った理由は、瀧に会いたかったからだけですね。瀧の回想として直後にその場面が挿入されていた為、勘違いしていました。しかし、下のカットから分かるように、星が落ちて三葉がいなくなった世界でも、彼女は髪を切り、髪留めを付けていません。劇中で彼女の友人が言っていたように、瀧と奥寺先輩のデートを後押しした事で失恋し、それで髪を切ったのでしょうか?そして、瀧に会うことは出来なかった為に、星が落ちて死んでしまったのでしょうか?これは違うと思います。なぜなら三葉がいなくなった世界でも、瀧は彼女の髪留めを持っているからです。三葉は、彼女がいなくなった世界でも、瀧に会って髪留めを渡しているハズです。
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あらすじの中で自分は、三葉が幽世で瀧を待っていた、と書きました。これは、この作品の根幹を支えるSF理論が、いわゆるタイムパラドックスとは少々異なると考えた為です。その説明は、劇中で一葉おばあちゃんから語られた事が、そのまま答えになっていると思います。おばあちゃんは、まず"組紐"の話の中で、紐が縒る様、絡まり合う様、向きを変える様を時間に当てはめて例えていました。これはSF作品においてパラレルワールドの説明にも用いられる、"超弦理論(超ひも理論)"を指していると考えられます。
超弦理論とはいったいどんなものなのか、ざっくり言えば、素粒子を一本のひもとして考え、高次の次元をそのひもの中に巻き込まれたものとして考える、というモノです。また、オープニングで歌われた『夢灯籠』の歌詞の一節「5次元にからかわれて」の5次元とは、超弦理論で取り扱われる、空間を指す3次元に時間を加えた4次元、それらの高次元にあたる"別の宇宙"を指していると思われます。それが、SF作品においては、パラレルワールドとして扱われたりするわけです。
次に、御神体に"口噛み酒"を御供えする際、今度は幽世について話をしました。これは、日本神話にも表れる"現世と幽世"の話そのままです。幽世には現世とは違う時間が流れているといいます。どちらの話も劇中で同一人物から語られた事から、一貫性が示唆されていると思います。そして、本作においては、この幽世こそが高次の別の宇宙に当たるのではないでしょうか?
超弦理論に関しては、この作品に関連するところだけピックアップして記述しています。全貌が気になる方は、是非、調べてみて下さい。

タイムパラドックスと少々異なると言った理由ですが、瀧が最後に御神体の側で目を覚ました時、彼が三葉の名前はおろか、彼女との事を覚えていなかったからです。一見すると、三葉と瀧の入れ替わりをキッカケとして、彼女が瀧に会いに行き縁が結ばれる、というタイムパラドックスが原因のように思えます。しかし、三葉の運命が変わったのは、星が落ちた後の話であり、その前の入れ替わりの出来事の記憶は消えないハズです。この事から自分は、2人が記憶を失っているのは、時間を隔てて縁が結ばれたからではなく、現世と幽世を隔てて縁が結ばれたからだと考えました。原因はタイムパラドックスではなく、幽世での事を現世に持って来られなかった為ではないでしょうか?浦島太郎が竜宮城で過ごした時間を、玉手箱により現世に持ち込めなかった事と同じような理屈です。
黄昏時では幽世の人に出会えるともいいます。瀧が出会ったのは、時の流れが異なる幽世で、彼を待ち続けていた三葉だったのではないでしょうか?それどころか、それまでの入れ替わりについても全てがそうで、劇中での"憑かれた"という表現は、そのまま答えだったのではないでしょうか?邪推かもしれませんが、古典の授業で"黄昏時"を扱った時、おばあちゃんが"幽世"の話をした時、それらを聴いたのは三葉ではなく、彼女になっていた瀧でした。そのように演出されて描かれた事は、少なくとも絶対に偶然ではないハズです。三葉は自分が幽世の存在である事に、途中までは気付いていなかったのではないでしょうか?ただ、星が落ちる事を知って東京へ行く事を決心した時には、あるいは、自分がそうだと気付いていたのかもしれません。
※動画投稿版コメントにおいて指摘いただきました通り、黄昏時を聞いたのは三葉の方でした。慎んで訂正いたします。瀧が幽世に入る、三葉が東京で黄昏時に瀧を見付ける、とするなら、むしろ、そうでないとダメですね。


昨日の記事では2人の関係について、"交換日記から始まる遠距離恋愛"と比喩しました。この比喩の意味するところは、言った自分でも最初はよく分かっていませんでした。入れ替わり生活を通して互いの事を深く知り、その時の出来事を日記に付けていた事を指して、文通での交換日記を通して互いに惹かれていく様のようだ、と、そう表現していました。しかし、劇中で瀧が三葉に出会った時、「凄く遠いところにいた」と言っていた意味を考えた時、自分が遠距離恋愛と表現した意味がわかりました。これは"新宿と飛騨"という物理的な距離や"3年"という時間的な距離ではなく、それ以上に、"現世と幽世"という霊的な距離を指していたのではないでしょうか?本当にどうしようもなく遠い距離です。新海監督がこれまでに描いてきた、星を隔てる物理的な距離や年齢を隔てる時間的な距離を扱った恋と比べても、本当にどうしようもない距離です。ただし、この作品において、幽世がそのまま死者の世界として解釈されているかといえば、それは違うのではないかと思います。そうであるならば、超弦理論がメタファとして説明されていないハズです。ここでいう幽世とは、"シュレディンガーの猫"のような、可能性の定まっていない重なり合った世界ではないでしょうか?
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これを踏まえると、三葉が瀧と奥寺先輩のデートを後押しした時、「今日のデート、私が行くハズだったのにな…」と言って涙する意味の重みが大きく変わってきます。初見だと、"本当は、私が瀧くんとデートしたかったのにな…"と捉えられる場面ですが、実際は、もっとどうしようもない感覚に対する涙であったように思います。そして、上京した三葉が電車に乗る瀧を見つけ、赤面して俯きながら「瀧くん…。瀧くん…。」と繰り返し呟く場面。本当に愛おしそうに、何回も名前を呟く場面。この時、彼女にあったのは、この広い東京で彼に出会えるわけがなかったのに、という思いではなく、同じように、もっとどうしようもない感覚だったのかもしれません。ただ、あの時2人が出会えた理由も、その感覚と同じ理由なのではないかと思います。あの時は、ひょっとすると黄昏時だったのではないでしょうか?
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これらの2つの場面が、自分には物凄く心に刺さったように思えました。その理由をこうして考えてみた次第です。そうして、"三葉は瀧を幽世でずっと待ち続けていた"という考えに行き着いた時に、どうしてここまで、自分がこの作品に惹かれるのかがわかった気がしました。わかっただけで涙が止まらないのに、映画館でもう一回観たら、そこで号泣してしまいそうで、これはもう、気持ちが落ち着くまで観に行けないかもしれません。

最後に、三葉は瀧に助けを求める為に、彼に会って髪留めを渡したわけじゃないと思います。瀧に恋したから、星が落ちるその前に三葉は彼に会いに行って、それで縁が結ばれたんです。そうして結ばれた縁から、星が落ちるその前に、彼女に恋した瀧が三葉に会いに来たんです。色々と理屈をこね回しましたが、それが何よりも良かったんです。すべてがこの一点に収束するよう、リアリティではなく、説得力を持っていた事が良かったんです。これはまさしく、新海誠監督が描いてきた"セカイ系"の系譜にある作品だと思います。

追記:映画の公開日である8月26日は、超弦理論を統合したM理論の提唱者"Edward Witten(エドワード・ウィッテン)"の誕生日だそうです。不思議な縁ですね。SFというジャンルがもっと面白く、間口の広いものでありますように。

スライドとして動画に編集しました。

王道万歳!!ベタ最高!!古き良きセカイ系かもしれない『君の名は。』ネタバレ感想と考察

君の名は。』観てきました。思った事を幾つかまとめてみます。

もう観たという方、ネタバレOKという方は下記へスクロール。 

 ちなみに、新海誠作品で観た事があるのは、『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』『猫の集会』『クロスワード』の5作品。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シナリオはPVを観た時の予想通り、大筋は乙一の『きみにしか聞こえない』のSF要素を強化した上で、男女入れ替わりネタを主軸とした感じのモノ。そのベタさたるや、隕石関連の結末を読めない人はいないんじゃないかと思う。

しかし、じゃあアニメとしてダメなのかというと、そんな事は全くない。

 

・作画について

登場人物の動きは非常に細かく、だからこそ入れ替わった時の一挙手一投足に笑える。下ネタの天丼をしたいが為に、おっぱいを揉む描写に拘ったわけじゃない事は、作品をちゃんと観た人ならわかるんじゃないかと思う。そして、前作から引き続き描かれる東京(主として新宿)の街並み。現実のそれよりもなんとなくキラキラした感じで、それは三葉の憧れのフィルターを通しているからかもしれない。飛騨の情景はそれほどキラキラとはしていないが、空気の澄み具合が違うから、本来は逆だろうと思う。実際、幽世にある御社を最初に訪れた時は、瀧視点で描かれた為か綺麗だった。あと、舞台が細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』と近いので、描かれ方のタッチの違いを比べてみるのも良いかもしれない。

 

・音楽について

全編に渡ってRADWIMPSが担当し、ボーカル曲とインストゥルメンタルが併用されている。実際に観るまではOPアニメが用意されているとは思ってなかったので、ここから意表を突かれた。作品の内容として、"RADWIMPSの超豪華なMPV"と言っても半分くらいは説明出来るんじゃないかと思うが、これは、挿入歌の場面のアニメーションの持つ情報量が、非常に大きいからではないかと思う。入れ替わり生活を目まぐるしく描いた場面、「入れ替わりは週に2、3回」という台詞から、おそらく最低でも1ヶ月、ニュアンスによってはそれ以上の時間が描かれた事になる。互いにぶーたれながらも、入れ替わり生活を謳歌する2人の様子が、矢継ぎ早に飛ぶ台詞の応酬と、速いテンポで切り替わるカット割、そして、挿入歌の歌詞によって描かれる。多分、あの数分だけ切り取っても短編アニメとして成立するし、これは、短編アニメも多く制作してきた監督の色だと思う。入れ替わりについて具体的な説明を挟むのではなく、ある意味で独立したアニメーションとする事に、挿入歌の貢献度は大きいのではないかと思う。

 

・SF要素について

よくよく考えると、タイムパラドックスの要素がシナリオの根幹にある事がわかる。劇中の説明として、三葉が夢の中で入れ替わる事については、血筋である事が何度か語られている。過去に同様の災害があった時もそうだったようなので、隕石の落下もきっかけの一つだとわかる。しかし、それだけでは相手が瀧である理由付けにはなっておらず、その必然性は物語の終盤で明かされる。それは、文字通り、三葉が自分で選んで瀧と縁を結んだからなんだけど、ここで時間がループしてる事になる。この点、説明が投げっぱなしかと言えばそんな事はなく、前半のお婆ちゃんと糸織りをする場面でちゃんと理由が語られており、思い返してみると、あの場面がこの作品のSF考証の根幹だとわかる。これは、神酒に関しても同様の演出がなされていたと思う。なお、ループしているのは、あくまで2人の出会いのきっかけだけであって、紐細工の髪留めはループしてない。名前を思い出せなくなった原因は、多分、コレ。

 

・ガール・ミーツ・ボーイ要素について

互いの身体が入れ替わるというかなり特殊な状況ではあるけれど、本質的には、最初は反発しあっていた2人が、交換日記を通して互いに惹かれていく物語だと思う。交換日記の媒体がスマホだから、ぱっと見はそんな感じしないけど、やってる事はまさしく、遠距離恋愛一歩手前の文通。だから、瀧が先輩とデートするってなった時、2人とも浮かない感じになってる。手紙では相手の事を応援してたんだけど、その時には2人の気持ちはもう…ベタだ。三葉の「今日のデートは私が行くハズだったのにな…」なんて、映画館じゃなかったら絶対に悶絶してる。その時、三葉が泣いてた理由なんてわかりきってる。でも、「2人はこの後会えるのだろうか?」という不安が常に付きまとっているから、わかりきっている事が問題にならない。三葉が上京した時のしおらしい感じとか、実は3歳差で歳下の男の子の名前を赤面しながら繰り返し呟くとか、糸織り細工の髪留めは赤い糸のメタファだろうとか、手の平に書いたメッセージとか、何もかもがベタだが、2人は会えるのかという不安が最後の最後まで続くから、全然問題にならない。その上で、ラストにフェイントを畳み掛けるから卑怯。

 

セカイ系と表現した事について

一応、友人たちの力を借りたし、直接の描写は無かったとは言え、あの後町長は重い腰を上げた事は劇中でも示唆された。それでもセカイ系だと思うのは、三葉の最後の行動原理が、手の平のメッセージに他ならないと思ったから。仮に、あの後住民たちが一丸となって、みたいなシーンがあった場合、その辺がブレて『サマーウォーズ』みたいな雰囲気になるだろうし、そうなると瀧が置いてきぼりになる。あくまで2人の物語として展開された以上、この作品は古き良きセカイ系の系譜だと思う。

 

※追記 上記だと内容があまりに表面的だった為、全面的に書き直しました

 

ker-cs.hatenablog.com

 

ネタバレ感想『シン・ゴジラ』

初日と翌日、『シン・ゴジラ』を2日連続で観てきました。

もう観た方、ネタバレ大丈夫という方だけ下記へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あらすじは他の人が書いてるだろうから、思った事だけ羅列して。
ゴジラの知識は、平成のvsシリーズ全作観たのと、それ以前の作品は虫食い状態の視聴。
あと、ちょっと横道に逸れた所では、平成のガメラ三部作とモスラ三部作は観た。

・総評
観て、すごく満足感があった。面白かったというか、すごかった。
ヒューマンドラマ要素皆無なのに、所々泣けるし、人間賛歌してる感じが伝わってきた。不思議。人間賛歌というより、究極の単一生命体ゴジラに対して、群体としての生命である人間の底力、強さをこれでもかと描いていたように思う。
ゴジラシリーズをそれなりの本数観てきたけど、ゴジラを恐ろしいと感じたのは初めてだった。絶望感で泣ける映画ってのもそうそう無いんじゃないかと思う。
映画館を出た時、東京の街並がいつも通りで心底安堵した。

ゴジラについて
まず思った事は「誰だお前は!?」って事。「徹底的に情報統制されてたけど、別の怪獣も出てくるのか?」「こいつをゴジラが踏み潰すのか?」等、初見ではこの辺、色々と混乱しながら観てた気がする。で、立ち上がった瞬間に「お前がそうなのかよ!!」って。ここまで来たら、ゴジラのイメージとかCGの違和感とかは頭の中からは消し飛んでた。
中盤まで話が飛んで、放射能熱線のシーン。ここはもう「終わった…」と思った。もう長い事、どちらかというと対怪獣、対兵器として使用されてきた放射能熱線なだけに、これが真っ向から人類に向けられた描写が、これほど恐怖心を煽るとは思わなかった。それこそ、核攻撃で東京に穴を開け、共倒れする結末も有り得るんじゃないかと覚悟した。

・会議シーンついて
会議シーンが多いというのは、この映画を観た人なら誰でも感じる所だろうと思う。では、退屈だったのかと言えば、とにかくテンポが早いので、自分はそうは感じなかった。むしろ、矢継ぎ早に字幕が挿入される為、退屈どころか息つく暇もないくらい。おそらく、初見で全てを理解させる気は無いに等しい構成になっていたと思う。それでも、大筋の対応くらいはだいたい分かる情報量だったし、時々笑いを挟んで息抜きさせつつ、短いカット割で進行することで長さを感じさせないようになっていたと思う。

・カット割について
とにかくカット割が非常に多い。多い時はカメラ7台同時に回したというのも納得の多さ。上記の通り、これは全体のテンポを良くする事に寄与してたと思うんだけど、それとは別に、所々に挿入される長いカットのシーンを際立たせていたように思う。個人的に印象的だったのが、おばちゃんがおにぎり配るシーン、国連が核攻撃を決定した後総理代行が「そうだよなぁ…」って呟くシーン、海外の研究機関のおばあちゃんが「人間を信じましょう」と語るシーン、ヤシオリ作戦開始時の矢口の演説etc...etc...。状況説明は徹底的に短縮する一方で、割くべき所には絶対的に時間を割いていたんじゃないかと思う。

・登場人物について
キャラが多過ぎるので、感情移入した人、しなかった人がいるけれど、個人的には劇中登場した総理のキャラが、対称的で面白かった。ちょうど場面が大きく転換する所での交代という事もあり、個性が際立っていたように思う。冒頭で優柔不断さを見せていた総理が、自衛隊に攻撃中止を命令するシーン、賛否あるだろうけど、それまでの積み重ねがあった上でのアレはカッコ良かった。一方の総理代行は、最初は頼りなさそうな感じがあるんだけど、だんだんと物事に動じない大物振りが垣間見えて、劇中で評された通りの狸だったなと。
劇中ではキャラクターの情報について、必要最低限、それこそ、戦闘単位としての役職程度の紹介しかされていないのだけれど、背景美術やちょっとした行動から、映画を観た人達の中で勝手にキャラ付けされていく様が興味深い。秋田県出身の総理とか、おにぎりのおばちゃんとか、あとは、制作も想定してなかったであろう"水ドン"の謎の人気とか。魅力的なキャラクターを生み出す上で、細々と説明する必要なんて無い、なんて事実を突きつけられてる気がした。
あと、パトレイバーへの既視感の正体が、防衛大臣を演じた余貴美子さんの声質が、パトレイバーでしのぶを演じた榊原良子さんの声質に近いからだ、と思って一人納得してるんだけど、同じ感想を持ってる人がほとんどいない不思議。最初は、スタッフロールの企画の所に、ミニパト監督の神山健治さんの名前があって、それが既視感の原因かとも思ったりしもした。

自衛隊の戦闘とヤシオリ作戦
ゴジラシリーズの戦闘って、現場の指揮でドンパチやってる印象があったので、指揮系統のリアルな描写はすごく新鮮だった。あれだけ伝言ゲームの描写を入れつつダレないってのは編集の妙なんだろうなと思ったのと、弾が外れて被弾した周りのビルが爆発する、倒壊したビルがなぜか爆発する、みたいなよくある描写が一切無くて、会議シーンだけでなくて、戦闘シーンも含めてドキュメンタリーを観ているような気分だった。
ヤシオリ作戦は一見すると地味。だけど、あれ以上派手にされたら胃がもたれそうなのと、ファンタジーに突き抜けてしまうだろうから、あれ以上の描写はないように思う。新幹線が登場した時は一瞬何が起こったのか分からなかったが、アレが爆発した瞬間に素直に感嘆した。で、"無人在来線爆弾"が登場した時には、「これは人類勝ったぞ!!」と謎の確信を持った。

最後に、今年の流行語大賞は"無人在来線爆弾"で決定して良いのではないだろうか?