お城には犬がいた。アイビーと名付けられた干し草のにおいがするその犬は、シャーロットとはぐれて兵士達に運ばれてきた私の側に寄り添った。しかし、何かに気付きハッとして、また崩れた井戸の方へと駆けて行った。心細さでどうにかなりそうな私の元に、王と王妃が処刑されたと兵士が告げた……。
気が付くと、私はシャーロットの寝室でベットに横たわっていた。物音に気付いて身体を起こし、扉の方へ視線を向けると、アイビーが寝室の扉を押し開けた。そして、トボトボとベッドの方へ歩いて来て、私の横で身体を丸めた。私は震える両手でアイビーを抱きしめて、懇願するよう囁いた。
「ねぇ、アイビー……、私が…私が本当はアンジェだって事……、みんなにはナイショにしてくれる?」
アイビーはくぅんと短く鳴くと尻尾を振って私の頬をそっと舐めた。そうしてようやく、冷たかったベットが暖かく感じられた。
『二人の共犯者』
カサブランカから戻ってしばらくした頃、プリンセスは何か意を決したように、私を連れて行きたいところがあると言った。せっかくの休日だしたまにはドライブでも、そう言ってドロシーが車を出してくれ、行き先を知っているらしいベアトが道案内を務めていた。出発してしばらく経ってから、ちせが口を開いた。
「ところで、何処へ向かっておるのじゃ?」
「そういえばちゃんと話していませんでしたね。私の両親に、皆さんを紹介しようと思って」
「そうは言ってもプリンセス、お主の両親は、もう……」
プリンセスとちせの会話を聞きながら、私は、自分の身体が強張るのを感じていた。目的地はロンドンの郊外の小高い丘の上にあった。街中と違って空気は澄んでいるが、こんな辺鄙な所に王族が眠っているとは俄かに信じ難かった。
「こんな所に墓地があったのか。国王夫妻の遺体は、革命軍が他の兵士達と一緒に焼き捨てたって聞い……、あ、いや、すまない…」
「そうですね……。表向きはそうなっています。実際は、王国の降伏の取引材料として引き渡されたようです」
「むごい話じゃ……」
ドロシーが少し目を泳がせながらそう言って、ちせは目を閉じて手を合わせた。日本式の作法なのだろうか。ベアトはプリンセスの方を見やると直ぐに顔を伏せ、目尻に涙を浮かべていた。皆しばらくの間、口を噤んでいたが、プリンセスが私と二人きりで話したい事があると言って、ドロシー達は先に車の方へ戻る事になった。
「行くぞ、積もる話もあるじゃろう」
「そうですけど……」
ベアトだけは渋々という様子であったが、ドロシーに頭をぽんぽんと撫でられると大人しく引き下がっていった。遠ざかる三人の後ろ姿を黙って見送る中、最初に口火を切ったのはプリンセスの方だった。
「みんな、もうきっと気付いてるわよね、私達の事。ドロシーさんには今度、口止めに何か良いお酒を見繕ってあげないといけないかしら?」
「そうね……。でも、ちせはもう少し気付いていない振りをして欲しいわ。あれじゃスパイ失格よ」
そうして軽口を叩き合いながら、それでも私は聞かずにはいられなかった。
「ねぇ、どうして、プリンセスが泣いてるの……?」
「だって……、あなたが泣かないもの……」
「私は黒蜥蜴星人よ。私にはそんな感情無いもの」
「シャーロットの嘘つき……」
そう、私は嘘つきだ。私はあの日、両親が殺されるところを目の前で見た。悲しみと恐怖、憎悪がぐちゃぐちゃになって心を掻き毟る中、私は熱狂する群衆の間を駆けて逃げた。それからは、アンジェから聞いたスリの技術を独学でなぞりながら、必死に命を繋いだ。そして、人身売買の為に連れ去られた先で、組織をコントロールが襲撃してLに拾われる頃には、私からはシャーロットとしての感情が消え失せていた。ただ一つ、アンジェに会いたいという想いを除いては。
「でもね、シャーロット。あなたにここに来て欲しかった理由は他にもあるの」
「どういう事?」
「こっちよ」
それだけ言って、プリンセスは、墓地の片隅の小さなお墓の前に私を案内した。
「アイビー、シャーロットを連れて来たよ」
“lvy(アイビー)”そう墓石には名前が刻まれていた。どこからか、くぅんと鳴き声が聞こえた気がして、思わず私は振り返った。そして、私は視界に掛かる靄を払いながら、記憶の井戸の底を覗き込んだーーー。
そうだった……、お城には、犬がいた。アイビーと名付けられたその犬は、私が産まれる前からお城にいた。大きくて大人しく、ふわふわしたピアデットコリーだった。牧羊犬の仕事をこなす傍ら、私が産まれてからは、まるで親代わりのように振舞っていた。レッスンが嫌になった時、公務に疲れた時、私は決まってアイビーのお腹に頭を預け、庭園の木陰で一緒に眠っていた。
そうだった……。あの日も、お城には犬がいた。井戸の側で私たちが互いに見つめ合っていると、アイビーは私を探しにやって来た。アイビーはアンジェを見るとすぐ、短く吠えて威嚇した。私は、怯えるアンジェの前に立ち、この子は私の大切なお客様だから吠えちゃダメ、そうアイビーに言い聞かせた。そして、私がアンジェと友達になった夜、私はまたアイビーに言い聞かせた。私の大切なお友達の事だから、あなたもちゃんと大切にしてあげるのよ、と。
「ーーーアイビーは、私の初めてのピアノのコンサートの後に、眠るように逝ってしまったわ……。まるで、私が一人で立って歩けるようになるまで待っててくれたみたいに。あの子は私達の大切な友達だから、あの後の事をずっとあなたに話したいと思って……。シャーロット……?」
泣いているような笑っているような、そんなプリンセスの顔が霞んで見えて、私は自分の頰が濡れている事に気が付いた。枯れていた井戸に水が急速に戻り、黒い蜥蜴が溺れていくのを感じた……。
「私、今の今までこんな大切な事を忘れていたの?あの子がいたのに……。私、どうして、あんな……っ……」
プリンセスが私をそっと抱きしめ、いよいよ井戸は溢れ返りそうになっていた。
「シャーロット、あなたはアイビーの事を忘れていたわけじゃないわ。あなたは、私にプリンセスを押し付けたって、そう言ったけれど……、やっぱり、私はあなたから、あなたの大切な繋がりも、あなたが受けるべき慰めも、全て奪ってしまったの……」
「そんな……。そんな事……、私が押し付けてしまったの……。プリンセスの事も、アイビーにだって……」
「それは、私だって同じなのよ……?もし、あのまま入れ替わらずにはぐれていたら、私はあなたに会うために、きっと、共和国のスパイになっていたわ」
それは、恐ろしい想像だった。立ち込める硝煙と錆のにおい、ひたひたと足元に這い寄る生暖かい水の音、その光景を私を抱き締める最愛の人の手が作り出すなど、決してあってはならないと思えた。私が押し黙っていると、プリンセスが再び口を開いた。
「ねぇ、シャーロット、私達はお互いに奪い合ったんじゃないのかもしれない」
「……どういう事?」
「私達はきっと、お互いの過去も未来も、一緒に取り替えてしまったの。だから、あなたはアイビーの事を覚えてなかったのよ」
「そんな……」
過去を取り替えるなど、私には突飛な想像に思えた。しかし同時に、私は生まれた時からアンジェだった、そう思い込もうとしている自分がいた。
「だからね、シャーロット。私達、これからはお互いの大切なモノをゆっくり返していきましょう。あの後の事だって、ドロシーさんから話を聞くだけじゃ物足りないもの」
「私だって、プリンセスの事をもっと知りたいと思うわ。でも……」
「そうするとアンジェではいられなくなってしまう?」
「……うん」
「私の前でシャーロットに戻るのは嫌?」
「そんな聞き方ずるい……」
プリンセスがいたずらっぽく笑って、私は、これから先もずっと、彼女には敵わないのではないかと思ってしまった。
「私言ったわ、あなたの心の壁を壊してみせるって。少しずつで良いの。それまでは、あなたの涙を独り占めする事を許して」
「……うん」
私はそう小さく返事した。溢れた井戸の水が引いてゆくまで、私達は寄り添っていた。私は、井戸にそっと蓋をして鍵を掛け、それをプリンセスに預けた。そして、黒い蜥蜴の皮を身に纏う前に、もう一度アイビーに向き合ってこう伝えた。
「また来るからね。アンジェの事を、護ってくれてありがとう」
ーーーそう、お城には犬がいた。干し草のにおいがするその犬は、今までもこれからも、私達の秘密を黙してくれている。