「灰原さん、江戸川君に今日のプリントを届けてもらって良いかしら?」
頬杖をついて主人の居ない空席を眺めていた私の元に担任の小林先生から声が掛かった。当の机の主は今日、風邪をこじらせて寝込んでいた。小さくなっても相も変わらずいつも事件に首を突っ込んで、それで昨日は池へとドボンだ。そう、私を庇って……。そうして、プリントを受け取って帰り支度をする私の元に、いつものメンバーが少し浮き足立った様子でやって来た。
「なんだ灰原、コナンのとこ行くのか?」
「僕たちも一緒に行っても良いですか?」
私は別に遊びに行くわけじゃ……。しかし、どう断りを入れるのが良いか思案していると、吉田さんがはしゃいでいる二人にビシッと言った。
「ダメだよ二人とも。コナン君は風邪でお休みしてるんだもん。私たちがうるさくしたら余計にひどくなっちゃうよ」
意中の少女に注意され目に見えて二人はシュンとしたが、状況が状況だけにすぐに気を取り直した。
「そうですね……、ここは灰原さんに任せましょう」
「じゃあ、頼んだぜ灰原」
「大袈裟ね。ええ、任せてちょうだい」
サッカーしようぜ、と声を掛け合い教室を後にした二人を見送りながら、私は助け舟を出してくれた妹のような友人に声を掛けた。
「ありがとう吉田さん。なんだか好意をストレートに断るのも気が引けて。江戸川君、結構調子悪いみたいだから」
「んーん、いいの。だって今日の哀ちゃん、ずっとコナン君の机の方ばっかり見てため息ついてるんだもん。コナン君のこと、お願いね」
「そう……?そうだったかしら?」
そう言いながら、私は彼の机に再び視線を落とし今日の出来事を反芻した。私は、今日の授業内容も、それ以外の風景も、何一つ覚えてはいなかった。
『優しくて残酷なあなた』
思い返すとなんだか大袈裟に事を頼まれたような気もするが、そもそも、寝込んでいる彼をわざわざ起こしてプリントを手渡すわけにもいかない。それに、小学一年生が帰宅するような時間帯では彼女もまだ不在だろう。うだつの上がらない顔でデスクで煙草をくわえている毛利探偵にプリントを手渡し、私はすぐに踵を返すはずだった。それが……、
「どうして…?」
探偵事務所の入り口のドアをノックした私の耳に届いたのは、トーンの低い中年男性の声ではなく明るく通りの良い女性の声だった。予想外の人物の出迎えに目を丸くしている私を見ると、どうやら彼女は合点がいったようで事のあらましを説明してくれた。
「え?ああ、ちょうどテスト前で部活もお休みなの。それに、お父さん仕事で出張しちゃってるしコナン君が心配で飛んで帰って来ちゃった」
「そう……」
「哀ちゃんは、学校のお届け物を持って来てくれたのかな?」
「ええ……」
「わざわざありがとうね。……そうだ。ねぇ、少し上がっていかない?コナン君、今は奥の部屋で寝てるんだけど、ついさっき安室さんが、試作品の感想が聞きたいから、ってケーキを差し入れてくれたの」
安室という名前が出たことに私は少し身構えたが、それ以上に、期待が込められた彼女の視線を無下にするのは気が引けた。それに、まさか私が来るのを見越して彼がケーキに一服盛っているということも無いだろう。
「じゃあ、少しの間なら……」
そう言って彼女に手招きされるままに事務所へと上がったところで、ふと、こうして彼女と二人きりになるのはいつ以来だろう、また無遠慮な言葉を口にして気分を害してしまわないだろうか、そんな思いが脳裏を過ぎった。普段は一回り年齢が離れた子供たちと接しているというのに、本来、殆ど年齢が変わらない彼女との会話を心配するというのもよくよく考えると妙な話だった。
「ちょっと待っててね、今お茶を淹れるから。あ、ひょっとしてコーヒーとか飲む?」
「ええ、ブラックで大丈夫」
「やっぱり哀ちゃんて大人っぽいね。コナン君なんて絶対飲まないもの」
そう言って手際良く準備を進める彼女を眺めながら、私は子供のフリを演じてジュースをせがむ彼の気苦労に思いを馳せた。
“たまに無性にブラックが恋しくなる……”
彼は博士のところに来るとそう言って、私にコーヒーをせがむのだから。そして、溜息を吐きながらコーヒーを待つ彼を見ていると、どうしても私の手際は決まって悪くなってしまう。まるでお預けを食らって待ち惚ける子犬のような彼の姿を横目で眺めながら、“急いで淹れても美味しくないでしょ?”等と軽口を叩きながら、ゆったりとお湯を注いでドリップするのだ。そんな彼の姿を知っているのは私だけ、そんな瑣末な優越感を覚えながら、私はコーヒーを淹れる彼女を眺めていた。
「お待ちどうさま。コーヒー、熱いから気を付けてね」
そうして小皿に乗せられてきたのは鮮やかなピンク色のケーキだった。一言にピンクと言っても色合いが微妙に異なる層がいくつか重ねられている。その上にちょこんと添えられた小さなハートのチョコレートが少し不恰好な気もするが、まだ試作段階で形が整っていないのだろうか。ホント、公安にしておくのが勿体ない、パティシエでも目指してくれていれば私たちの日常はもっと平和になったんじゃないかしら、そんなつまらないことを考えながら、”頂きます“とフォークをケーキに向けたその時、不意に彼女が私に問い掛けた。
「ねぇ哀ちゃん、片想いの色ってなんだと思う?」
「片想いの、色?」
「うん。安室さんがね、“このケーキの淡い赤は片想いの色なんですよ”って。からかわないで下さいよって言ったんだけど、“いえいえ僕は本気ですよ。なんならコナン君に聞いてみたらどうですか?”なんて言うから気になっちゃって。でも、コナン君今は寝てるし、哀ちゃんならわかるかなって」
彼宛の謎掛けに私が答える義理も無いけれど、そんな意味深な言葉が引っ掛かったままケーキを食べ進めるのも気が引けた。それに、たまには先に真相に辿り着いて彼の悔しがる顔を拝むのも悪くないとも思った。
なるほど、流石に彼に向けられた問い掛けだけあって博士のナゾナゾほど簡単に解けそうにはない。そうすると、このケーキの色合いは単純に苺やラズベリーというわけではなさそうだ。片想い……、不恰好なハート……、ピンク……、いえ、淡い赤い色……、私はこれまでに見聞きした情報を羅列して一つの推論を導き出した。
「多分、ベゴニアのシロップね」
「ベゴニアって花の名前の?」
「ええ、果樹園で売られるアイスクリームやソフトクリームにはフレーバーとして使われることがあるそうよ。それに、最初はチョコレートのハートの形が不恰好なのかと思ったけれど、あの人がそんな半端なモノを差し入れるわけないもの。きっと、この形で完成なんだわ。歪な形のハート型はベゴニアの花弁の特徴、そして花言葉は片想い。まず間違いないでしょうね」
喫茶ポアロがあの人目当てで集まった若い女の子で繁盛してると工藤君が話していたけど、その子達に片想いのフレーバーを振る舞うなんて随分と皮肉の効いた演出だ。そうして、謎解きが終わったところでようやく私は一口目を口に運んだ。そんな手間の掛かることをされても、流石にベゴニアの風味というのは私にも正直よくわからない。味の方はラズベリーがメインのようで美味しいとは思うけど、これなら酸味が被るコーヒーよりも、少し甘めの紅茶の方が合うかもしれない。
「哀ちゃん凄いね!!まるでコナン君みたい!!」
「別に、たまたま知ってただけだから……」
彼の名前を引き合いに出され、なんだか気分が落ち着かなくなった。あの小憎たらしいドヤ顔で推理を披露する彼の姿をいつも目の当たりにしているだけに、そんな彼の姿と被って見られるというのはなんとも複雑な気分だった。
「じゃあさ、哀ちゃんはコナン君の事どう思ってるの?」
急激な話題の転換に私は内心つんのめってしまった。話の文脈が前後で噛み合っていない。……いや、どうやら彼女の興味の比重はケーキのフレーバーとしてのベゴニアではなく、片想いに置かれているようだった。これがファッション誌で特集されていたとりとめのない女子トーク、いわゆる“恋バナ”というモノなのだろうか。なんだか私に向けられる彼女の瞳が、まだ幼い友人の熱を上げる瞳とダブって見えた。
「別に、期待されるような対象として見てるわけじゃないわ。ちっちゃい癖に生意気で、いつも自信たっぷりで、推理オタクで……、いざという時は昨日みたいに、守って……、くれるけど……、それにしても無鉄砲で、カッコ付けで……」
そこまで話して、私はハッとして口を噤んだ。これではまるで工藤君について話しているようではないか。彼が必死に隠し通している事実について、彼女に余計な不信感を抱かせてしまったのではないか。そう思って恐る恐る顔を上げると、彼女は何か思い出に浸るような、あるいは慈しむような表情で私を見ていた。そして、思いもよらないことを口にした。
「哀ちゃん、やっぱりコナン君の事が好きなんだね」
「何を、言って……」
「わかるよ。だって、私が新一を想ってる気持ちとそっくりだもの」
「え……?」
「ちっちゃい頃から意地悪で、いつも自信たっぷりで、推理オタクだけど……、いざという時は頼りになって、勇気があって、カッコ良くて……、そんな新一が私は好きだから、哀ちゃんもきっとそうなんじゃないかなって。だって、コナン君とアイツってそっくりだから」
そんなことないわ。
勘違いよ。
最初に言ったけど、彼のことは別に……。
彼女の言葉を否定するどんな言い訳も喉から出かかって全て消えてしまった。ストンと、心に落ちて納得しそうになった。でも、そんなことはあってはならないとも思った。そうしてやっとの思いで絞り出した言葉は自分でも要領を得ないものだった。
「そんなこと、気付くなんて……、ダメ……」
一体誰が何に気付くのがダメなのか、自分にもわからなかった。そして、この言い方はまるで、彼への好意を暗に認めているような返答ではないか。
「ごめんなさい、そういう気持ちって隠しておきたいって思うよね。もちろん、勝手にコナン君に話したりはしないから」
「いえ、そうじゃなくて……、えっと……」
私は彼女に心配を掛けたいわけじゃないし、ましてや二人の仲を裂こうとも思わない。私が返答に窮して押し黙っていると彼女が再び口を開いた。
「何か、コナン君に気持ちを伝えられない理由があったりするのかな?もちろん、話したくなかったら言わなくても良いからね」
彼はあなたが好きだから、とは口が裂けても言えなかった。逃げたくない、けど、彼を巡る複雑な関係性を嘘で塗り固めて誤魔化す自信も無い。嘘は付かず、しかし真実は伏せて、私はありのままを告げた。
「……江戸川君の元いた場所に彼の好きな人がいるの。その人も彼のことが好きだから」
そう、彼はいずれあなたの側に帰る。そして、私にはそれを遂行する義務がある。だから私は私の気持ちに気付くなんて、ダメだったの……。
「そうなんだ……、コナン君、ここに来る前のことってこれまで全然話してくれなかったし……。でも、哀ちゃんは、それで良いの?」
「良いの……、今の私は十分過ぎる程に幸せだもの」
「そっか、でも、私で良かったら、いつでもお話聴くからね」
「ええ、ありがとう……」
彼女は間違いなく心から後押ししてくれているのに、その優しさが大きければ大きいほど私にはそれが残酷に思えてしまうなんて。
私の話した事に偽りはない。だから、あなたは私の気持ちに気付くなんて、ダメだったの……。
「片想いの色の話、江戸川君にはしないで……」
「うん、わかった」
彼が、私の気持ちに気付くなんて、ダメだから……。
「コーヒー……、やっぱり、苦いわ」
「うん……。お砂糖、入れる?」
「ミルクが良い」
私が、憧れのお姉さんを思慕する少年に片想いする幼気な少女に、そして、コーヒーを背伸びして飲んだことが本当になるならどんなに良いだろう。そう思いながら、私は淡い赤い色をした片想いの味を噛み締めた。
……なんてね。
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